ショートメッセージ

聖書の理解の一助となる短いメッセージのページです。
※山中直義師執筆の「デボーションノート」より抜粋

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「あなたの息子、あなたの母です」(ヨハネの福音書 19 章 17-30 節)

 イエス様は、この地上でご自分の母親であったマリアのことをとても大切にしていらっしゃったと思います。そのイエス様が、十字架におかかりになって死なれる時、ひとりの弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」とおっしゃいました。

 この弟子は、ほかの弟子たちのように逃げ出すことはしませんでしたが、十字架で苦しまれるイエス様のすぐそばにいながら、結局、何もすることが出来ませんでした。この弟子は、自分がどれほど愛がなく無力で惨めな人間であるか、十字架のそばに立ちながら、いやというほど思い知らされていたことと思います。でも、そんな自分に、イエス様はご自分の大切な人を任せてくださいました。それは、私はあなたを赦している、あなたはこれから私の代わりに生きて行きなさい、というメッセージだったのだと思います。イエス様を十字架につけた私たち罪人ですが、イエス様の十字架によって赦されて、新しい生き方をする恵みをいただいています。そして、その新しい生き方は、イエス様の代わりに、イエス様が愛しておられる人々に仕えるという生き方なのです。(2019年5月13日公開)




「恐れないで、ただ信じていなさい」(マルコの福音書 5 章 21-43 節)

 「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか」。その報告を聞いた時、主イエスに対するヤイロの信仰は消えてなくなりそうになったことと思います。もう主イエスと関わりたくないと思ったかもしれません。でもその時、主イエスはヤイロに、「恐れないで、ただ信じていなさい」とお命じになりました。主を信じることをやめてしまえば、そこですべてが終わってしまいます。しかし、主を信じることに懸命に留まるなら、主はみことばを聞かせてくださり、必ず救ってくださいます。ヤイロの娘に再びいのちを与えた主のみことばを、私たちも聞かせていただけるよう、恐れないで、ただ信じ続けましょう。(2019年5月13日公開)




「聖なる道」(イザヤ書 35 章)

 どんな宗教を信じていても、最終的には真の神様のもとへ行くことが出来るのでしょうか。聖書は、そうではない、と教えています。

 今から約2700 年前、預言者イザヤは、あらゆる国々で、罪が赦され、主の民とされて、主を礼拝するようになる人たちが起こされることを預言しました。イザヤは、その人たちは、「聖なる道」(特別な道)を通って、主のもとにやって来るのだと言いました。

 その預言から約700 年後、イエス様が私たちのもとに来て下さいました。そして、私たちのために十字架におかかりくださり、私たちの罪が赦されるただ一つの特別な道を切り開いてくださいました。イエス様が用意してくださったこの救いこそ、「聖なる道」なのだと聖書は教えています。イエス様を救い主として信じ、その救いに感謝して喜んで礼拝を捧げるとき、私たちの礼拝は真に主に受けいれられる、喜びと祝福に満ちたものとなるのです。イエス様が用意してくださった救いの道を、共に喜んで歩みましょう。

 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
  わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」
   ヨハネの福音書14 章6 節(2019年5月19日公開)




「主は知恵のある方」(イザヤ書 31 章)

 やっぱり自分の考えが正しくて、相手が間違っていた。人間同士だと、そんなことも起こると思います。でも、主に対しては、いつも謙遜に、主のほうが正しいということをわきまえていなければなりません。

 ユダの人々は、アッシリアが攻めて来ようとしていたとき、エジプトと同盟を結ぶことこそが一番賢いやり方だと考えました。主は、預言者イザヤを通して、それは良くない判断だ、主だけを信頼して救いを得よ、と何度も語りかけておられました。ですが、彼らは自分たちの判断こそが正しいと考え、主のみことばを軽んじ続け、語られていた とおりのさばきをその身に招いたのでした。

 主は、私たちの最善を願って、最善のおしえを与えてくださる「知恵のある方」です。ユダの人々は、へりくだって主のみことばに耳を傾け、主のみこころを教えられて、みことばに聞き従うべきだったのです。あなたは、語られている主のみことばを軽んじて、自分の考えを優先させていないでしょうか。主が語っていてくださるみことばこそが、あなたにとっての最善だということをわきまえる知恵を持つようにしましょう。(2019年5月12日公開)




「おごった都」(イザヤ書 22 章)

 間違ったものに目を留め、間違った生き方を続けるならさばきが訪れる。今日の聖書箇所は、そのことを私たちに告げています。ユダの都エルサレムは、山の上にある町で、主によって建てられた麗しい都でした。しかし、その民は主を無視し続け、「おごった都」になってしまいました。それ故、徹底的なさばきと滅びが必ず来ることを、イザヤは預言しました。しかし、そのような主の警告を聞かされても、彼らは自分たちの力や知恵や考えばかりに目を留め、主には目もくれず、主の警告を無視し続ける。イザヤはそう預言しました。さばきが自分たちを取り囲んでいても自分たちの力で何とか出来ると考え(8-11)、悔い改めを迫られても、勝手に諦めて刹那の遊興に身を委ねる(12-14)。それが彼らの姿でした。

 聖書は、主に目を留めず、主の語りかけを無視し続ける民のおごりは、必ず壊滅的なさばきを招くと警告しています。与えられた主の守りや祝福を自分の特権や功績によるものと勘違いして驕ったり、主のあわれみを勝手に見限って悔い改めを放棄したりすることがないようにしましょう。(2019年5月12日公開)




「モアブの高ぶり」(イザヤ書 16 章)

 主は、高ぶって主に逆らい続けるモアブに対して、悲惨なさばきが訪れることを預言しておられました。でも、主は、そのようにして滅びることになるモアブのために心を痛め(9,11 節)、何とかして救いを与えようと願ってくださいました。そして、主の民であるユダに対して、さばきを受けて苦しむモアブの民が助けを求めてきたら助けてあげるように、とお命じになりました(3,4 節)。でも、モアブは結局、自分の力を誇り、高ぶり続け、主が差し出してくださった救いの手を拒絶しました。最後まで、自分の力と偶像に拠り頼んで、とうとう滅びることになってしまったのです。

 私たちはどうでしょうか。高慢になって主の語りかけを無視していないでしょうか。高ぶって主に逆らう者には、必ずさばきが来ます。主が差し出していてくださる救いの手であるイエス様に、しっかりと身を避けて留まっているようにしましょう。(2019年5月12日公開)




「主を恐れることを喜びとし」(イザヤ書 11 章)

 イザヤは、何もかもがなくなってしまったかのように思えるところから、ダビデの子孫として救い主がおいでになる、と預言しました(1)。そしてこの救い主は、「主を恐れることを喜びとし」(3)、弱い者や貧しい者のために正義と公正をもってさばきを行い、悪しき者をご自身のことばによって滅ぼしてくださるのだと言います。さらに、この救い主によって、「主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちる」(9) ようになり、主を知るようになった人々が主を恐れることを喜び、互いに平和に暮らすようになると預言しました。

 この預言から約七百年後にこの世に来て下さった主イエスは、まさに、預言されたとおりの救い主です。私たちは、貧しい者として生まれ、人々から捨てられて十字架におかかりくださった主イエスによって、神である主を本当に知ることができるようになりました。私たちに御子を与えて下さった主を恐れることを喜ぶ者であらせていただきましょう。(2019年5月12日公開)




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