ショートメッセージ

聖書の理解の一助となる短いメッセージのページです。
※山中直義師・平野孝明師執筆の「デボーションノート」より抜粋

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「はじめに神が」(創世記 1 章)

 この世界はどのようにして始まったのか。人は、その答えを探し求めてきました。そして、その起源について諸説あったとしても、この世界が偶然存在するようになったとはどうしても思えない、と多くの人が考えています。あなたは、どう思いますか。

 聖書はその冒頭で、「神が天と地を創造された」と宣言しています。そして、この神が、深い愛と目的をもって人(私たち)を特別な存在として造られたこと、「非常に良い」存在として私たちを造られたことを教えています。

 人生に空しさや困難を覚えることがあったとしても、私たちは確かで絶対的な希望を持つことができます。いや、持つべきです。なぜなら、神がこの世界を、そして人(私たち)を、「非常に良い」ものとして造られたからです。たしかに、私たちの罪によって多くのものが歪められ、傷つけられてしまいました。しかし、神の根本的なみこころは今も変わってはいません。神は、私たち一人ひとりに「非常に良い」歩みをさせたいと願っておられます。そして、みことばによって闇に光をもたらし、この世界を造り上げられた神は、今も、みことばによって私たちに光を与え、新しい創造を成し遂げてくださるお方です。神を信頼し、希望をもってみことばに耳を傾けて歩むとき、あなたも、「非常に良い」人生を歩むことができるのです。(2019年8月26日公開)




「神が、あそこにいる少年の声を聞かれたからだ」(創世記 21 章 8-21 節)

 神の語りかけを聞いたアブラハムは、それがたとえ自分の思い・願うことと違っていても、神のことばを信じ、言われる通りに我が子イシュマエルとその生みの母であるハガルを自分の元から去らせました。二人がアブラハムから持たされたものはパンと水の入った皮袋だけでした。どうやってこの二人はこれから先、生きていくと言うのでしょう。しかし、神様が約束されたことは必ずその通りになります。神は、あそこにいる少年の声を聞かれる方です。放ってはおかれません。神様は私たち一人ひとりを愛し、いつも私たちをご覧になっておられます。その愛してくださる神様のことば・教えをよく聞いて、私たちも神様をよく知り、愛しましょう。(2019年8月25日公開)




「事の善悪」(創世記 31 章)

 ヤコブはラバンに幾度も欺かれて苦しんできました。ただ、ヤコブも父イサクを欺いた罪を抱えたままであったはずです。また、ラバンを欺いて逃げようとしました。そんなヤコブがラバンと「事の善悪」を論じ合えば、衝突は免れず、殺し合うことになっていたかもしれません。

 私たち人間は、「事の善悪」を論じているうちに歯止めがきかなくなってしまうことがあります。だからといって、なんでもうやむやにしたり、自分が損をしていればそれでよいということでもありません。聖書は、全てを知り、全てを正しく判断し、最善を成し遂げてくださる神に信頼して委ねるようにと教えています。「事の善悪」を論じ合って人とぶつかるようなとき、全てを知り、最善をなしてくださる神がおられることを心に留め、このお方を信頼してすべてを委ねる、ということが正しい判断だということを忘れないようにしたいと思います。(2019年7月9日公開)




「一緒でなければ」(創世記 44 章)

 ヨセフの兄たちは、この時から20 年ほど前に弟のヨセフを奴隷として売ってしまいました。でも、神様はヨセフを守ってくださり、ヨセフも兄たちを恨んだりせず、兄たちが本当に家族を大切にすることを願っていました。ヨセフは、末の弟ベニヤミンを捕らえることで、兄たちが今度は家族を大切にするかどうかを試しました。兄のユダは、もう二度と家族を悲しませたくない、「一緒でなければ」と言って、ベニヤミンの代わりに奴隷になると申し出ました。ヤコブの家族は、神様の導きによって、家族を本当に大切にする人たちに変えられたのでした。(2021年4月16日公開)




「助産婦たちの勇気」(出エジプト記 1 章)

 誰かを恐れて、本当はすべきでないこと、したくないことをしてしまう。そんなことはないでしょうか。どうすれば、本当に正しいと思うことを貫けるのでしょうか。 エジプトの王ファラオは、ヘブル人の助産婦シフラとプアに、生まれてくるヘブル人の赤ちゃんが男の子の場合はその場で殺さなければならないと命じました。ファラオは、人々から神のように恐れられる存在で、その命令に逆らうことは死を意味しました。しかし、この助産婦たちは「神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはしないで、男の子を生かしておいた」(17) と言います。ファラオよりも神を恐れるべきだ。彼女たちはこの真理に立ち、そのように実行しました。すると、神様は彼女たちに良くしてくださり、彼女たちを守り、その家を栄えさせてくださいました。

 誰かを恐れて、正しいと思うことが出来なくなってしまう。私たちが歩む中でも、そんなことがあると思います。しかし、神様より強い者などこの世に存在しません。神様の守りを信頼して、神様を恐れて正しいことをする生き方を選び取っていきましょう。神様は、神様を恐れる人を必ず祝福してくださいます。(2019年7月9日公開)




「心を硬くしたファラオ」(出エジプト記 7 章)

 ファラオは、アロンが投げた杖が蛇に変わるという不思議を見ても、自分たちの呪法師にも同じようなことができたので、心をかたくなにして、主のことばに耳を傾けようとしませんでした。ナイル川の水がすべて血に変わるという不思議を見ても、自分たちの呪法師にも同じようなことができたので、心をかたくなにして主のことばを聞こうとしませんでした。

 奇跡的なことが起これば、人は神様を信じるかもしれない。そう思うことがあると思いますが、はたしてそうでしょうか。ただめずらしがって終わったり、よけいにがんこになることもあると思います。奇跡的なことに目をうばわれるのではなく、神様のことばにちゃんと耳を傾けることが大切ですね。 (2021年5月2日公開)




「不思議な食べ物」(出エジプト記 16 章)

 エジプトの国を出たイスラエルの民は、水の次は食べ物のことでモーセに不平をいいました。すると主は、天から不思議な食べ物を降らせてくださいました。民は、白くて甘い薄焼きパンのようなその不思議な食べ物を、「マナ」(「これは何だろう」という意味)と呼びました。神様は、イスラエルの民が約束の地に入るまで、40 年間、毎日この不思議な食べ物で民を養ってくださいました。

 神様を信じて歩んでいても、困ったりつらかったりすることは起こります。でも、神様は必ず守り導いてくださいます。神様や人に向かって不平を言うのではなく、神様の不思議な守りを信じて、毎日みことばをしっかりといただきながら歩みましょう。(2019年10月12日公開)




「罪のきよめのささげ物」(レビ記 4 章)

 自分が犯してしまった罪が赦されないとしたら…、こんなに恐ろしいことはないと思います。その罪のせいで神様にさばかれることを、ずっと恐れて生きて行かなければならないからです。あなたも、おうちの人に隠している悪いことがあるときは、心の底から喜んで生きられないでしょう?ちゃんと告白して、赦してもらったとき、とっても嬉しくて自由になるでしょう?

 神様は、私たちの罪をちゃんとさばかれるお方です。罪を犯しても気にしないようないい加減なお方ではありません。でも同時に、私たちが罪赦されて、心から喜んで自由に生きることを願っていてくださるお方でもあります。だから、「罪のきよめのささげ物」を献げることで私たちが赦されるようにしてくださいました。でも、私たちの罪が赦されるために本当に必要なのは、動物のいのちではありません。レビ記で教えられている「罪のきよめのささげ物」は、やがて来られる救い主、イエス・キリストを指し示すためのものでした。私たちは、イエス様が与えて下さった赦しに感謝し、神様に罪を告白して悔い改めることで神様に赦されるのです。神様の赦しをしっかり受け取りましょう。(2021年5月18日公開)




「自分流のやり方?」(レビ記 10 章)

 間違った説明をしたり間違ったお手本を示したりすると、それを信じて従おうとする人にも失敗させてしまいますよね。ナダブとアビフは、神様のおしえにわざと背いて、自分たち流のやり方で祭司の仕事をしようとしました。でも、それはとっても危険なことであり、絶対にやってはいけないことでした。なぜなら、イスラエルの民は、祭司たちのことばや行いをとおして、神様が聖なるお方であることを学んでいったからです。だから、祭司たちが主のみことばを軽んじて従わなくなると、民もまた、みことばを軽んじて従わなくなります。そして、神様から離れて永遠の滅びに向かってしまいます。だから、ナダブとアビフは主の前から出た火によって焼き尽くされてしまいました。それが、人の永遠のいのちや永遠の滅びに関わることだったからです。

 あなたは、自分流の信じ方、自分流の神様への仕え方をしようとしていませんか?みことばがおしえているとおりに従うということは、自分自身やまわりの人たちの永遠のいのちに関わる大切なことであるということを、どうか忘れないでくださいね。(2021年6月29日公開)




「わたしの掟とわたしの定めを守りなさい」(レビ記 18 章)

 みんながしているからといって、それが正しかったり、あなたにとって良いことであるとは限りません。レビ記が書かれた時代、エジプトやカナンの地では、人々がみだらなことを平気で行っていました。私たちのまわりはどうでしょう。今の日本では、若い人たちが自分たちの思うままに交際し、みだらな関係を持ったりすることを、特に悪いこととして戒めることがなくなってきています。しかし、神様はそのような事を禁止しておられます。結婚するまで、人と性的な関係をもってはならないのです。

 神様の教えを無視して生きて行くと、それによってその人は汚れてしまい、神様から離れて生きることになります。そうすると、何が正しく何が間違っているのかが益々分からなくなって、本当に神様から離れて滅んでしまうことになります。「わたしの掟とわたしの定めを守りなさい。人がそれらを行うなら、それらによって生きる。」このことばを、どうぞ真剣に受け止めてください。(2019年7月14日公開)




「聖なる者でなければならない」(レビ記 19 章)

 神様は、「聖なる方」です。「聖なる方」というのは、普通とは違う特別なお方ということです。そして、その神様によって導かれ、その神様とともに歩む者たちは「聖なる者」でなければならないといいます。それは、他の人たちとは違う、特別な生き方をする者でなければならないということです。どうすればそのような生き方が出来るかというと、聖なる方である神様が与えてくださるみことば、聖書のことばによく聞き従って生きることです。私たちは、みことばを聞かないままで、自分の努力や頑張りで聖なる者になろうとしても、決してなれません。むしろ、毎日しっかりと聖書を読んで、それを神様から自分への語りかけとしてしっかり聞いて、少しずつであったとしても誠実に聞き従うことが大切です。「聖なる者でなければならない」と言われると、自分に出来るかなぁ、と不安になるかもしれません。でも、毎日、少しずつみことばに聞き従うことなら、あなたにも必ず出来ます。主を信頼して、やってみましょう。(2021年7月14日公開)




「御名を汚すなら殺される」(レビ記 24 章)

 神様の名前をののしったくらいで殺されるなんて、厳しすぎる、と思う人もいるかもしれません。でも、本当にそうでしょうか。もし、少しくらい神様を馬鹿にしてもいい、ということが許されてしまうと、沢山の人が、そうやって神様を馬鹿にして、神様を恐れることを本気で考えることがなくなってしまうでしょう。そうなると、その人たちは神様から離れてしまって、罪を赦されることがないまま滅びてしまいます。あるときは神様を馬鹿にして、あるときは本気で礼拝して罪を赦してもらう、ということは出来ないのです。「きびしすぎる」と思ってしまう気持ちは、もしかすると、「神様のことを軽く考えすぎている」ということではないでしょうか。心から、主を恐れなければなりません。(2021年7月24日公開)




「主の宿営を(けが)さないように」(民数記 5 章)

 イスラエルの民は、約束の地カナンを目指して出発しようとして、その準備をしていました。これまでの章では、戦うことのできる人たちの数を数えたり、幕屋を警護するレビ人の務めを明確にしたりしました。今日の聖書箇所では、「主がそのただ中に住んでおられる宿営」から(けが)れをなくすことが命じられました。目に見える(けが)れもそうですが、隠れた罪という目に見えない(けが)れも、みことばに聞き従ってちゃんときよめることが命じられました。もし、イスラエルの民の罪が赦されないまま放って置かれると、それはその人だけの(けが)れではなく、宿営全体の(けが)れとなり、戦いになったときに神様の守りが受けられず、滅んでしまうことになります。目に見えない自分の(けが)れを神様にきよめていただくことは、自分だけのことではなく、いっしょに歩む人たちのためにもとっても大切なことなのです。罪があるなら、神様に告白しましょう。(2021年8月12日公開)




「レビ人の奉献」(民数記 8 章)

 レビ人は、イスラエルの民の中でも、少し特別な存在でした。彼らは、ほかの民と同じように畑を耕したり羊を飼ったりするのではなく、会見の天幕での仕事をしました。レビ人は、ほかの人たちより賢かったり仕事が出来たから選ばれたのではなく、純粋に、神様がそうお決めになったのでその仕事をしたのでした。彼らは、イスラエルの民全体に代わって主の奉仕をすることで、イスラエルの民全体の役に立っていたのでした。イスラエルの民も、自分たちの代わりに会見の天幕の仕事をするレビ人の生活を支えていました。教会も同じですね。会社やおうちで働く人々もあれば、教会でずっと働く人もあります。皆、神様に聞き従って、互いに支え合って歩んでいるのです。(2019年7月18日公開)




「肉が食べたい」(民数記 11 章)

 イスラエルの民が荒野を旅していたとき、主は彼らにマナをお与えになりました。それは、毎日、十分に与えられ、健康にも良いものでした。ですが、イスラエルの民は、主の恵みであるマナを感謝することをしないで、「肉が食べたい。エジプトに帰りたい」と文句ばかり言いました。主は、彼らのことばに応えるようにして大量のうずらをお与えになりましたが、彼らがそれを食べると、彼らは苦しい病気で倒れてしまいました。神様がお怒りになり、さばきを与えられたのです。与えられている神様の恵みに感謝もせずに、不平や文句を言ってはなりません。(2021年8月26日公開)




「祭司とレビ人の働き」(民数記 18 章)

 祭司たちやレビ人たちは主の幕屋に仕える働きを担っていました。そして、一般の人が幕屋に近づいて罪を犯すと、彼らがその責任を負わなければなりませんでした。また、彼らはほかのイスラエルの民と違って、相続地としての土地を持つことが許されていませんでした。一方、神様は、イスラエルの民が神様に献げる十分の一をレビ人が受けるようにお定めになりました。また、レビ人も、そのようにして受けたものの十分の一を主に献げる責任がありました。そして、それは祭司たちに与えられることになっていました。このように、祭司たちやレビ人たちはイスラエルの民に代わって幕屋での奉仕を担い、イスラエルの民は主へのささげ物をもって彼らの生活を支えていました。皆が協力し合い、主に与えられた責任を果たして、主の民として歩んでいたのです。(2021年9月13日公開)




「主のねたみ」(民数記 25 章)

 イスラエルの民が偶像礼拝を始めたとき、「主の怒り」が燃え上がりました。それは、主の心が狭くてわがままだったからではなく、主から離れて滅びようとしていたイスラエルを何とかして悔い改めに導いて救おうとする主の愛と熱心のゆえでした。祭司ピネハスは、その主の怒りを重く受け止めて、主の思いを無視して罪を犯し続けようとした者たちを殺しました。それは、罪を悔い改め、罪を断ち切ろうとする思いを行動に示したものであり、イスラエルの民の代表としての行為でした。

 聖書は、神様のことを「ねたみの神」と表現することがあります。これは、間違った悪いねたみではなく、神様から離れて滅びようとする人々を何とかして救おうとしてかかわってくださる神様の熱心にもとづくものです。あなたは、イエス様を十字架にお与えくださったほどの愛で私たちを愛していてくださる神様を悲しませていないでしょうか。神様の怒りを軽く考えてしまっていないでしょうか。(2021年9月22日公開)




「向きを変えよ」(申命記 2 章)

 人生にはどこかで、ターニングポイント(向きを変える時)が必要ではないでしょうか。イスラエルの民は、主に逆らった罪のゆえに、荒野で三十八年間放浪していました。奴隷の国エジプトからせっかく救い出されたのに、荒野を当てもなくさまよっていたのです。ですが、主に逆らった者たちが死に絶え、その罪に対するさばきが終わった時、主は新しい世代になったイスラエルに対して、「向きを変えよ」と声をかけてくださいました。そして、彼らはもう一度、約束の地を目指して歩みを始めることになりました。主は、主に聞き従って歩もうとする彼らの歩みを豊かに祝福してくださいました。

 私たちの人生にも、荒野を放浪するような時期があるかもしれません。ですが、主イエス・キリストが十字架にかかってくださった今、私たちは悔い改めて向きを変えることが出来ます。荒野を放浪する生き方から、約束の地を目指して主とともに歩む生き方に変わることが出来るのです。(2019年7月18日公開)




「主が求めておられること」(申命記 10 章)

 主は、罪を犯す私たちを、ただ怒って滅ぼそうとなさるお方ではありません。主は、私たちを何とかして赦して生かそうとしてくださるお方です。そして、罪が赦された私たちに対して主が求めておられるのは、もう二度と罪を犯さないということではありません(私たちは、どうしても罪を犯してしまいます)。そうではなく、主は、私たちが自分の罪を知り、主を恐れ、主を愛し、主のみことばに従って幸せに生きることを願っていてくださいます。

 主は、私たちを赦すために、ご自分の最愛のひとり子であるイエスさまをお与え下さいました。主が私たちに求めておられることを、もう一度、しっかりと考えてみましょう。(2021年10月10日公開)




「最善のものを」(申命記 16 章)

 申命記16章1節には、欠陥のある物を主にささげてはならない、ということが教えられています。言い換えると、最善のものを主に献げなさい、ということですね。主は、私たちを愛し、いつも最善を尽くしていてくださいます。そして、私たちの罪を赦して私たちを救うために、最愛のひとり子であるイエス様を、十字架につけてくださいました。その神様に対して最善のものを献げることは、私たちにとっても、とても嬉しく、誇らしいことです(大好きな人にプレゼントをするときと同じですね)。心を込めてお祈りをささげ、心を込めて最善の礼拝を捧げるようにしましょう。(2021年10月29日公開)




「正しい量り方をするように」(申命記 25 章)

 聖書の時代、穀物などを売ったり買ったりする時には、重り石で重さを量ったり、升で量を量ったりしていました。そして、ある人たちは、ばれないように基準よりも重い重り石や軽い重り石を使ったり、基準よりも大きめの升や小さめの升を使って不正な利益を得ようとしました。神様は、そのような不正を忌み嫌われるお方です。だから、ずるをして少しくらい得をした気になっていても、結局は神様の祝福を失って大変な目にあうことになります。ずるは、どんな小さなずるでもしないようにしましょう。また、ある人には甘く、ある人には厳しく接するということもないようにしましょう。主のみことばを基準にして、愛と正しさに生きるようにしましょう。(2021年11月12日公開)




「神さまが与えてくださる助け」(ヨシュア記 5 章)

 イスラエルの民は、ヨルダン川を渡って、いよいよカナンの地(約束の地)に入りました。そのとき、荒野で40 年間毎日与えられていたマナ(覚えてるかな?神さまが与えて下さった不思議な食べ物です)が止みました。これからは、約束の地で豊かな収穫が得られるからです。神さまは、いつも同じ方法ではなく、私たちの状況に応じて、必要な助けを与えて下さるのです。

 エリコの町を攻め取る戦いをしようとしていたヨシュアにも、神さまは助けを与えて下さいました。その助けは、自分の思い通りに戦うのではなく、主のおっしゃることをよく聞いてそのとおりにするようにすることで与えられる助けでした。(2022年1月3日公開)




「占領すべき地」(ヨシュア記 13 章)

 ヨシュア記1-12 章には、イスラエルの民がカナンの地で多くの戦いに勝って、町々を勝ち取ったことが記されています。ですが、それでもまだ、「占領すべき地はたくさん残って」いました(1 節)。主は、年を重ねて老人になっていたヨシュアに、これから占領すべき地を丁寧に示し、それらの地をイスラエルの民に相続地として割り当てるようにお命じになりました。ヨシュアは、過去に与えられた恵みを振り返りつつ、これからの戦いにしっかりと目を向けるように励まされたのでした。

 神様は、私たちが小さな子どもであっても、老人であっても、私たちにやるべきことを示し、励まし、それを成し遂げさせてくださるお方です。過去の恵みを心に覚えつつ、改めて主のみことばを聞き、未来に目を向け、主に従って歩んで行きましょう。(2022年1月16日公開)




「いつまで延ばしているのか」(ヨシュア記 18 章)

 イスラエルは、カナンの王たちに戦いで勝利しました。あとは、カナンの地をしっかりと占領して、そこに住み着くだけです。だけど、イスラエルの十二部族のうちの七部族は、出て行って占領することを先延ばしにしていました(なまけていました)。ヨシュアは彼らに、神様に与えられた地なのだから、出て行ってしっかりと占領するように励ましました。

 イエス様を信じると、罪が赦され、永遠のいのちが与えられます。大勝利です。でも、心の中にある罪と戦って勝利したり、家族やお友達にイエス様のことを知らせることは、私たちが今も取り組まなければならない課題です。勝利の主を信じて、主のみことばにすぐに聞き従うようにしましょう。主は、勝利を与えてくださるお方です。(2019年7月18日公開)




「逃れの町」(ヨシュア記 20 章)

 神様は、「逃れの町」を定めるようにお命じになりました。逃れの町は、わざとではなく間違って人を殺してしまった人が、その償いとして殺されてしまうことがないようにするためのものでした。まず裁判が行われて、逃れの町に入れてもらうことができるかどうかが判断されました。入れてもらえた人は、そこで守られて生きていくことができました。そして、その時に大祭司だった人が死んだときには、自分の町に帰ることができました。その人が流してしまった血の償いが、大祭司のいのちによってなされたと見なされたからでした。

 新約聖書は、どんな罪人も、救いを求めて主イエスの元に来て悔い改めるなら、主イエスの救いをいただいて生きることが出来ると教えています。(2022年1月24日公開)




「戦いを教えるために」(士師記 3 章)

 ヨシュアが死んだ後、次世代のイスラエルは、自分たちの相続地に残っていた異邦の民によって苦しめられました。ですが、その苦しみには大切な意味がありました。彼らは、その苦しみを通して、どのように戦うべきかを教えられていったのです。主の民の戦い方は、ほかの民の戦い方とは異なります。主の民は、主に祈り、主に救っていただくことで勝利を得るのです。

 あなたにも、苦しみがあるかもしれません。ただ、その苦しみは無意味なものではないということを覚えていてください。主に祈り、主に救っていただくという経験を通して、主の救いを信頼し、主に聞き従うという信仰が養われますように。(2019年7月14日公開)




「救い出してくださったのはだれか」(士師記 8 章)

 イスラエルをミディアン人の手から救い出してくださったのは、主でした。それなのに、イスラエルは主に用いられたにすぎないギデオンに、「私たちを治めてください」とお願いをしました。ギデオンも、立派なことばを口にしながらも、自分がイスラエルを守り導く王であるかのような行動をとりました。

 主は、ときに人を用いて私たちを苦しみから救い出してくださいます。でも、人に目を奪われてしまって、本当の救い主を忘れてしまうようなことがあってはなりません。(2022年2月5日公開)




「やりかえしたいと思うときには」(士師記 15 章)

 ペリシテ人たちとサムソンは、お互いにひどいことをしました。どちらかがひどいことをすれば、やられたほうはもっとひどいことをやりかえしました。やられたことをやりかえす。そんな復讐のやり合いは、人も自分も傷つけて苦しめるだけで、良いものを何も生み出しません。

 イエス様は、イエス様を憎んで殺そうとする者たちに対して、やりかえす力も権利も持っておられたのに、そうはなさらずに、十字架にかかって死んでくださいました。憎しみではなく、愛によって解決をもたらしてくださるためでした。やりかえしたいと思うときには、イエス様のことを考え、神様に心を向けてお祈りするようにしましょう。(2022年2月25日公開)




「落ち穂を拾い集める信仰」(ルツ記 2 章)

 ナオミとルツは、ベツレヘムに帰って来ました。ルツは、二人が日々の糧を得て生きていくために、麦畑で落ち穂拾いをすることにしました。イスラエルでは、弱く貧しい人たちは落ち穂拾いをすることが許されていました。それは、弱く貧しい人たちのために、主が定めてくださった恵みの律法でした。ルツは、主の恵みを信じて、自分に出来ることを精一杯行なったのでした。そして、主はそんなルツに対して、ボアズを通して惜しみなく恵みを与えてくださいました。

 小さなことに見えたとしても、主が恵みによって与えてくださったことを大切にして誠実に生きるなら、主は、惜しみなく恵みを与えてくださいます。落ち穂を誠実に拾い集めたルツのように、私たちも主の前に誠実に生きる者であらせていただきましょう。(2019年7月18日公開)




「贖う者が途絶えないように」(ルツ記 4 章)

 主は、主に対して誠実に生きようとしたナオミとルツに惜しみない恵みを与えてくださいました。ボアズが、ナオミが手放さなければならなかった土地を買い戻し、ルツと結婚して、二人を苦しみと滅びから贖い出したのです。

 ルツ記は、ナオミが大変な苦しみを味わう場面からはじまりますが、最後は、ナオミがボアズとルツの間に生まれた赤ちゃんを胸に抱くという大きな喜びで終わっています。そればかりか、王がいなくてそれぞれの目に良いと思うことを行なっていたイスラエルを正しく導くことになるダビデの誕生が語られています。さらに、そのダビデの子孫として、イエス・キリストがお生まれになるのです。

 イスラエルの神を「私の神」と信じて生きる決心をし、主の恵みを信じてみことばに聞き従って誠実に生きようとしたルツは、私たちがどう生きるべきかを示しています。(2022年3月15日公開)




「栄光が去った」(サムエル記第一 4 章)

 イスラエルの人たちは、主の契約の箱が戦場に運ばれて来れば、それでペリシテ人に勝てると思いました。ですが、祭司ホフニとピネハスは主を軽んじて罪を犯し続けていました。また、彼らの父である大祭司エリも、主よりも二人の息子を重んじていました。結局、彼らはペリシテ人に敗れ、多くの者たちが死に、ホフニとピネハスも殺され、契約の箱まで奪われてしまいました。

 主を重んじて生きる人は主に重んじられますが、主を軽んじて生きる人は主に軽んじられるのです。主を軽んじたり、主の警告を軽んじたりすることがあってはなりません。(2022年4月18日公開)




「民も王」(サムエル記第一 12 章)

 イスラエルが人間の王を自分たちの上に立てることを求めたことは、大きな罪でした。真の王である主に治められることを拒んだからです。ですが、主は彼らの願いを聞き入れて、人間の王を立ててくださいました。その上で、守るべきことをお命じになりました。それは、民も王も、主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従うということです。民も王も主を恐れて主に従うとき、主は彼らを守り導いてくださるのです。

 教会も同じです。牧師や世話人や教会学校の先生たちが立てられていますが、教会の本当のリーダーはイエス様です。先生たちも、大人たちも、こどもたちも、みんなが主を恐れ、主を愛し、主に聞き従うときに、主は教会を豊かに祝福してくださるのです。(2019年7月21日公開)




「サウルの死を悲しんだダビデ」(サムエル記第二 1 章)

 あなたを憎んで意地悪ばかりする人に不幸なことが起こったら、あなたはどう思いますか。ダビデは、ダビデを憎んでいのちを狙い続けていたサウルが死んだことを知らされました。周りの人は、ダビデが喜ぶのではないかと思いましたが、ダビデはとっても悲しみました。ダビデにとってサウルは、「主に油注がれた方」(主に仕えるように選ばれた人)だったからです。ダビデは、サウルを憎んだり、サウルを敵だと思ったりしていなかったのです。

 ダビデは、サウルとヨナタンの死を悲しんで一つの哀歌(悲しみの歌)を作り、ユダの子らに教えるようにしました。サウルとヨナタンは、イスラエルのために戦った勇士だったことをユダの人たちにしっかりと教えて、二人の死を悲しむようにさせたのです。そのことは、サウルに仕えていたイスラエルの諸部族と、ダビデに仕えていたユダ部族とが争いにならないようにするために、大切なことでした。(2019年7月21日公開)




「すぐれた助言」(サムエル記第二 17 章)

 ダビデは、アブサロムから逃げていました。その時、アヒトフェルがアブサロムに助言しました。ダビデとその家来たちは疲れているはずなので、すぐに追いかけて、ダビデを打ち殺しましょう、というのです。実際、その時ダビデたちは疲れ切っていたので(29 節)、アヒトフェルの助言はすぐれたものでした。もしそのとおりにしていれば、アブサロムはダビデを倒すことが出来たでしょう。しかし、アブサロムは、アヒトフェルのすぐれた助言よりも、ダビデの仲間として潜り込んでいたフシャイによる助言が気に入り、時間をかけることにしました。そうして、ダビデは逃げることが出来ました。主が、アヒトフェルのすぐれた助言を打ち破られたのです。

 どれほどすぐれた助言も、主にさからうものなら、打ち破られてしまいます。本当にすぐれた助言は、主を信頼し、主に聞き従う心を持つ人に、主から与えられます。人の知恵ではなく、主のみことばに信頼する人こそ、打ち破られることのない人です。(2022年5月9日公開)




「王座に就くのはだれか」(列王記第一 1 章)

 ダビデは年を重ねて老人になっていました。いよいよ、次の王が王座に就く時が来ていました。その時、アドニヤは、「私が王になる」と言って、そのための準備を勝手に始めました。アドニヤは、それまで父ダビデを困らせることがなかったことや、体格が良いことや、生きているダビデの息子たちの中では自分が一番年上だったことから、自分が王になるのが当然だと思ったようです。ですが、主は、ダビデの次に王になるのはソロモンだと語っておられた(5:5 参照)ので、ダビデは、ソロモンを次の王に任命しました。

 私たちも、神様のみことばを無視して、自分が当然だと思うことを優先してしまってはいないでしょうか。大切なのは、私たち人間の目にどうか、ということではなく、主が何を願っておられるか、ということです。主のみことばをよく聞くようにしましょう。(2019年7月21日公開)




「なすべき仕事」(列王記第一 7 章)

 ソロモンは、自分の家(宮殿)よりも主の家(神殿)を建てることを優先しました(1)。そして、主の家で必要な物を作るために、ツロからヒラムを呼び寄せました。ソロモンは非常に豊かな知恵を持っていましたが、ヒラムが「青銅の細工物全般について、知恵と英知と知識に満ちていた」(14) ので、ヒラムに仕事を任せたのです。ヒラムは、約束の地から遠く離れた所に住んでいた人でしたが、その地を離れ、その知恵や経験を主の家のために用いることになりました。

 主の家/主の教会でなすべき仕事は、今もたくさんあります。あなたは、主のためにすべきことを優先しているでしょうか。自分に与えられた賜物や経験を、主のために用いようとしているでしょうか。今、なすべきことは何か、よく考えてみましょう。そして、各自に与えられている賜物や経験が豊かに用いられるよう、励まし合い、協力し合って、共に主に仕えていきましょう。(2022年6月7日公開)




「心を主と一つに」(列王記第一 11 章)

 ソロモンは、歴史上最も知恵があり、豊かであった人物だと言えます。それは、王になった頃のソロモンが、主を第一にし、主に聞き従うことを第一にしていたからです。彼の知恵と繁栄は、主が与えてくださったものでした。しかし、晩年になると、ソロモンは主のみことばに従うことをやめてしまい、異国人の女を愛し、異国の神々を礼拝するようになってしまいました。そうして、ソロモンが犯した罪の故に、主のさばきとして、イスラエル王国は北と南に分裂することになったのでした。

 どれだけ知恵があり、どれだけ豊かであったとしても、主と主のみことばに対する心に欠けがあるなら、行き着くところは悲劇的なものとなります。この世では弱く愚かで貧しいと言われても、主と主のみことばに対して欠けのない誠実な心で歩むことこそ、真に賢く豊かで平安な歩みなのです。あなたの心は、主に対して欠けがありませんか?(2019年10月12日公開)




「主のことばによって」(列王記第一 13 章)

 南王国ユダに住む一人の神の人が、主に命じられて、北王国にあるベテルで主のことばを語りました。南王国の王が、北王国で偶像に仕える祭司たちを殺すことになる、という厳しい預言でした。この神の人は、ベテルで食事をする(親しい交わりを持つ)ことを主に禁じられていたので、ユダに帰ろうとしました。しかし、その途中で、ベテルに住む老預言者に騙されて、ベテルに戻って食事をしてしまいました。この神の人は、主のみことばに背いたことを責められ、死んでしまいました。

 ベテルの老預言者は、このことを大変悲しみました。この老預言者は、何とかしてユダの神の人と親しくなって、北のイスラエルと南のユダが仲良くできるようにしたかったのかもしれません。しかし、主のことばを無視して、人間的な思いで何かをしようとすることは悲劇を生みます。「主のことばは…必ず成就する」のです。主のことばを重んじて、それに基づいた生き方をするようにしましょう。(2022年7月6日公開)




「神がいないためか」(列王記第二 1 章)

 アハズヤ王は、モアブに逆らわれ、事故で大けがをしたときに、イスラエルの神様ではなく、外国の偽りの神にどうなるかを聞こうとしました。アハズヤは、そうやって主を無視しようとしましたが、主は預言者エリヤをつかわして語りかけてくださいました。それは、とても厳しいことばでしたが、アハズヤが悔い改めることを願ってのことばだったと言えます。でも、アハズヤは、どれだけ大変なことが起こって、どれだけ厳しいさばきがあると告げられても、最後までへりくだることを拒んで、主のことばを軽んじました。そして、主のことばのとおりに死んでしまったのです。

 主に言い逆らうことも罪ですが、主を無視しようとすることも、大変な罪です。困った時は、意地をはったりあきらめたりしないで、素直にへりくだって「助けてください」と祈りましょう。主は、最愛の御子イエス様を十字架に与えて下さったほどに、あなたを助けることを願っていてくださるお方です。(2022年8月9日公開)




「主を恐れていました」(列王記第二 4 章)

 ある預言者が死んだとき、その妻がエリシャに叫んで言いました。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは主を恐れていました。ところが、債権者が来て、私の二人の子どもを自分の奴隷にしようとしています。…はしためには、家の中に何もありません。ただ、油の壺一つしかありません」。主を恐れ、主のことばを人に伝える働きをしていても、苦しいことを経験することがあります。でも、主は、主のことばを伝える人とその家族を、大切にしてくださいます。この家族には、油の壺一つしか残されていませんでしたが、それが主によって豊かに用いられ、家族全員が守られて暮らしていけるようになりました。主は、主に仕える人たちを決してお見捨てになったりなさいません。信頼して、主に仕えていきましょう。(2022年9月2日公開)




「見えるようにしてください」(列王記第二 6 章)

 エリシャの召使いは、自分たちが敵の大軍勢に取り囲まれているのを見た時、「ああ、どうしたらよいのでしょう」と言って、恐れました。でもエリシャは、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言いました。そして、主に、この召使いの若者の目を開いて、見えるようにしてください、と祈りました。主がこの若者の目を開いてくださったので、彼は火の馬と火の戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちているのを見ました。

 私たちの肉の目では見えないものがあること、そして、霊の目が開かれてはじめて見えるものが大切だということを、聖書は教えています。目の前の困難や問題を見て恐れを覚える時、主の御力や御愛が「見えるようにしてください」と祈りましょう。主の御力や御愛を霊の目で見る時こそ、私たちは恐れから解き放たれ、救われるのです。(2020年4月9日公開)




「神に拠り頼んだので」(歴代誌第一 5 章)

 ルベン、ガド、マナセの半部族は、神様に拠り頼んで叫び求めた結果、強い敵に勝利することができました。でも、しばらくすると、神様を信頼することを止めてしまって、偶像に拠り頼んでしまいました。その結果、彼らはアッシリア軍に捕らえ移されて、三百年以上も苦しむことになりました。対照的なこの二つの戦いは、「神に拠り頼んで叫び求める」ことの大切さを教えています。

 さて、アッシリアに捕らえ移されて苦しみ続けた民には、もう何の希望も残されていなかったのでしょうか。不信仰の罪の結果なのだから、苦しみ続けるしかなかったのでしょうか。そうではありません。歴代誌は、主を信じるすべての者は、イエス・キリストによって苦難から救い出され、主を礼拝する幸いに必ず与るようになると教えています。だから、たとえ不信仰の結果としての苦難の中であったとしても、神に拠り頼んで叫び求めることをやめてしまってはならないのです。(2020年8月16日公開)




「心が一つになっていた」(歴代誌第一 12 章)

 イスラエルで最初に王になったサウルは、神様に聞き従おうとしませんでした。神様は、サウルに代わってダビデがイスラエルの王になるのだとおっしゃいました。それを知ったサウルは、ダビデを殺そうとして、ダビデをどこまでも追い回しました。そんなとき、ダビデのもとに、ダビデを助けようとする人たちが大勢集まってきました。サウルにではなく、神様に従おうとしたのです。

 サウルが死んだ後、イスラエルのすべての部族は、ダビデを王にするために集まりました。彼らは、「主のことばのとおりに」(23) するために、心を一つにして、ダビデを王にしようとしました。神様に従おうとした彼らには、喜びがありました。

 主のみことばに聞き従おうとするとき、そこには一致と平安、喜びが与えられます。主のみことばに聞き従い、私たちのまことの王であられるイエス様にお仕えしようとするとき、私たちにも一致と平安、喜びがあたえられるのです。(2020年8月24日公開)




「これを顧みなかったから」(歴代誌第一 13 章)

 今日の聖書箇所には、みことばを「顧みなかった」ことで起こったわざわいのことが記されています。

 ダビデたちは、神の箱を顧みなかったという過ちを認めて、良いことをしようとしていました(3,4)。神の箱を、エルサレムに運び上ろうとしていたのです。でも、神の箱という最も聖なるものに対して、あまりにも甘く考えていたことでわざわいに遭いました。民数記4 章1-15 には、神の箱は、レビ人が肩にかついで運ばなければならないと命じられています。にもかかわらず、ダビデたちは神の箱を荷車に載せて、牛に引かせてしまったのでした。さらに、牛がよろめいた時、そばにいたウザが神の箱に手を伸ばして押さえようとしました。その時、主の怒りがウザに対して発せられて、ウザは打たれて死んでしまいました。

 良いことをしようとしているのだから、方法は何だってかまわない。そう考えてしまうことがあるかもしれません。しかし、みことばを顧みないで好き勝手な行動をすることの危険を、忘れてはなりません。(2022年9月18日公開)




「彼に仕えるようになった」(歴代誌第一 19 章)

 今日の聖書箇所には、イスラエルの北に位置していた強大な民であったアラム人がダビデに仕えるようになったことが記されています。それは、思いがけないことから始まりました。ダビデがアンモン人に対して親切にしようとしたところ、アンモン人たちがその親切を疑って、戦いをしかけてきたのです。アンモン人たちは、ダビデたちを打ち負かすために、大金を払ってアラム人を味方につけました。でも、結局は、ダビデをはじめとするイスラエルがアンモン人とアラム人を打ち破りました。こうして、思いがけない形で、イスラエルの周辺の民がダビデに仕えるようになったのでした。

 相手の誤解や悪意から、「どうしてこんなことが」と言わざるを得ないことが起こることがあります。でも、「主が、御目にかなうことをされるのだ」という信仰を忘れず、戦うべき信仰の戦いを立派に戦いたいと思います。ときに主は、思いもよらないことを通して、ご自身の最善を成し遂げてくださるのです。(2020年8月30日公開)




「主の宮で仕える任務」(歴代誌第一 26 章)

 23-26 章には、主の宮(主の家)で奉仕をする人々のことが記されています。いけにえを捧げたり、祈りを捧げたり、そのお手伝いをしたり、聖歌隊で賛美を導いたりする人たちのことが記されています。今日の26 章には、「門衛」(1-19)、「宝物倉の管理」(20-28)、「外の仕事/つかさやさばき人」のことが書かれています。「門衛」は、主の家にふさわしくない人が入ってきて混乱することがないように見張る人たちです。それは、ときに命がけの仕事でした。「宝物倉の管理」は、主の家の大切なものを守り、主にささげられたものを適切に管理する人たちです。特に正直で誠実な人である必要があります。「つかさやさばき人」は、人々にみことばを教えたり、みことばに基づいて問題の解決を導く人たちです。主の家(教会)は、主によって召されて、主に与えられた任務を誠実に果たす人たちによって適切に守られ、管理され、その歩みが続けられるのです。

 教会で奉仕してくださっている方々に感謝しましょう。そして、自分にはどんな務めが委ねられているのか、祈ってください。あなたにも、主の宮で仕える任務があるのです。(2020年9月10日公開)




「主の栄光が神の宮に満ちた」(歴代誌第二 5 章)

 どれほど立派な神殿を建てても、そこに主がともにおられて主の栄光が満ちるのでなければ、その神殿には意味がありません。

 ソロモンが主の宮のためにしたすべての工事が終了したとき、精一杯の知恵と力を用いて作った用具類がすべて運び入れられました。そして、最後に、主の契約の箱が至聖所に運び込まれました。その箱には、モーセが主から受け取った十戒のことばが記された二枚の板が入っていました。それから、主の宮の働きに召された者たちが、一致して精一杯の讃美を捧げました。すると「そのとき」、主の栄光が神の宮に満ちたのでした。

 各自が精一杯の備えをし、みことばが重んじられ、心からの讃美が一致して捧げられるとき、その教会の礼拝には主の栄光が満ちるのです。(2020年9月12日公開)




「主を尋ね求めようと心に決めた者たち」(歴代誌第二 11 章)

 ダビデとソロモンが死んだ後、イスラエルの国は北と南に分裂してしまいました。南ユダの王であったレハブアムは、離れて行った北イスラエルの人たちを自分のもとに取り戻すために、戦うことで問題解決をしようとしました。そして、18 万人もの戦士たちを率いて、北イスラエルに向かって行ったのです。すると、そのとき、主のみことばがありました。主は、この分裂は「わたしが、こうなるように仕向けたのだ」と仰いました。そして、「兄弟たちと戦ってはならない」と仰ったのです。

 どんなに困難な問題の背後にも、主の主権があることを認めることが大切です。そして、自分を中心に考えるのではなく、主を信頼して、主のみことばに聞き従うことが大切です。レハブアムは、主に聞き従っていた間、主によって祝福されました。(2020年9月25日公開)




「人ではなく、主を恐れて、主に従う」(歴代誌第二 19 章)

 南ユダの王ヨシャファテは、前の章で失敗をしました。主に逆らい続ける北イスラエルの王アハブと仲良くしようとして、主に喜ばれないことをしてしまったのです。今日の章で、ヨシャファテはそのことを悔い改めて、改めて主に聞き従うことを大切にしました。ヨシャファテは、南ユダの人たちが、人の顔色を見て色々なことを判断して罪を犯してしまわないように、それぞれの町にさばき(びと)を任命しました。さばき人の役割は、日常生活の色々な問題を、主のみことばに基づいて解決するよう、人々を助け導くことでした。

 人と仲良くすること、人に喜ばれることは大切です。でも、人の顔色を伺って、人が喜ぶことを第一にして主への恐れや従順を失ってしまえば、やがて深刻な結果を招くことになります。人ではなく、主を恐れて、主に従う。それこそが、人にとっても、自分にとっても、「良いこと」だと聖書は教えています。(2022年10月22日公開)




「主の信頼を裏切ったウジヤ」(歴代誌第二 26 章)

 南ユダの第十代の王ウジヤは、周囲の国々が驚くほどの成功を収めました。それは、ウジヤが主を求めていた間、主が彼を栄えさせてくださったからです。しかし、強くなると、ウジヤの心は高ぶり、主の信頼を裏切ってしまいました。主は、ウジヤが主を求め、主に聞き従い、ユダの国をしっかりと導くことを願っておられたのに、ウジヤは、主に聞き従うことを拒絶するようになったのです。ウジヤは、神殿に入って香をたこうとしました。でも、その務めは主が祭司にお与えになった務めで、ウジヤに許された行為ではありませんでした。祭司たちはウジヤを注意しましたが、ウジヤは聞こうとせず、激しく怒りました。すると、彼が激しく怒ったとき、主はウジヤ王をツァラアトと討たれました。そうして、彼は主の前から立たれ、滅んでしまいました。

 主は、私たちを信頼して、私たちに賜物と使命を与えてくださるお方です。私たちは、どんなときもへりくだり、心から主を求め、主に聞き従い続けるようにしましょう。(2023年1月2日公開)




「神の宮を元の場所に建てるために」(エズラ記 2 章)

 バビロンでの七十年の捕囚の期間が過ぎたとき、主は、イスラエルの民がエルサレムとユダに帰ることができるようにしてくださいました。でも、そのときのエルサレムとユダは、荒れ果ててしまってひどい状況でした。立派だった神の宮(神殿)は、粉々に壊されたままでした。それでも、四万人ほどの人々が帰還しました。彼らは、バビロンで与えられていたある程度安定した生活よりも、エルサレムとユダが復興して、皆で主を礼拝することが出来るようになることを願って、自分たちの人生を捧げたのです。そして、リーダーたちの中のある人たちは、「自分たちの財力に応じて」「自分から進んでささげ物をした」のでした。

 神の家族の歩みが良くなるために、あなたにはどんなことができますか?(2023年1月14日公開)




「神の宮を元の場所に建てるために」(エズラ記 3 章)

 バビロン捕囚の期間を終えてエルサレムに帰ってきた人々は、まず、壊れていた祭壇を築き直しました。イスラエルの人たちは、祭壇でささげ物を献げることで、神様への感謝や信仰や悔い改めを表していたからです。旧約時代の祭壇は、私た ちにとっての祈りと深い関わりがあると言えます。イスラエルの人たちは、まず、祈りの祭壇を築き直したのです。私たちも、まず、しっかりと祈ることを大切にしましょう。

「主の宮の礎を据えた」

 次に、イスラエルの人たちはいよいよ主の宮(主の家)を築き直すことになりました。彼らは、そのために丁寧な準備をしました。必要な賜物を持っている人々に仕事を割り当て、一番良い材料をそろえ、しっかりとしたリーダーたちに導かれて、仕事に取りかかりました。そうして、主の宮の礎(土台部分)が再び据えられました。民はみな、主を賛美して大声で叫びました。約五十年前に破壊された神殿を知っていた老人たちは、大声をあげて泣きました。そして、喜びの声と泣き声が、遠いところまで響き渡ったのでした。(2023年3月6日公開)




「私たちの神のために宮(家)を建てる」(エズラ記 4 章)

 エルサレムに帰ってきたイスラエルの民は、彼らの神のために宮(直訳は「家」)を再建しようとしていました。すると、偶像崇拝をしていた周囲の異邦人たちが「一緒に建てたい」と申し出てきました。でも、イスラエルの人々はそれを断りました。「主の宮/神の宮」ということばの直訳は「主の家/神の家」です。エルサレムに帰ってきたイスラエルの民がしようとしていたことは、単に神殿の建物を再建するということではなく、神の家、神の家族を再建することを意味していました。ただ表面的に立派なものを造るのであれば、だれと協力してもよいでしょう。でも、「神の家」「神の家族」を建て上げるのであれば、神様を唯一の天の父と信じて、このお方に聞き従って生きようとすることが、何よりも大切です。案の定、申し出を断られた異邦人たちは、神様のことなど何も考えず、イスラエルの人たちの妨害を始めました。

 神の家/神の家族/教会を建て上げていくために、何が大切なのか、よく考えましょう。(2020年6月8日公開)




「主に告白して、そのみむねにかなったことをしなさい」(エズラ記 10 章)

 せっかく主の家を建て直したイスラエルの民でしたが、彼らの内側には大きな問題がありました。神様を信じず、異教の神々を信じて悪いことを行う女性を妻としている人々がいたのです。それは、目に見えない内側から、主の民を駄目にしてしまう深刻な問題でした。

 エズラが涙を流して祈っていると、民は自分たちの内にある罪に気付かされました。そして、自分たちがちゃんと悔い改めて問題を解決できるように、エズラに求めたのです。一度妻にした女性を追い出すことは、とても悲しく、とても難しいことでした。どんな人でも、目をつむって目をつむって逃げ出したくなってしまう問題です。でも、その罪をそのままにして、先に進むことはできません。エズラは、「主に告白して、そのみむねにかなったことをしなさい。この地の民、異国人の女たちから離れなさい」と命じました。民は、不平不満を言わず、その命令に従いました。主に従う道を選んだのです。(2020年6月14日公開)




「異教的なものから彼らをきよめ」(ネヘミヤ記 13 章)

 今日の聖書箇所には、ネヘミヤがいくつかの具体的な方法で、イスラエルの民をきよめたことが記されています。当時、イスラエルの民の中では、神様のおしえとそうではないものが混ざり合ってしまっていて、何が聖であり何が汚れているのか、何が正しくて何が間違っているのか、分からなくなっていました。ネヘミヤやエズラは、聖書のことばをちゃんと聞き直すように民を指導しました。そして、自分たちが間違ったことをしていることがみことばによって教えられたら、それにちゃんと従うように指導しました。

 城壁がなければ悪い者たちが土足で踏み込んで来るのと同じように、主のみことばをしっかりと保っていなければ、間違った良くない教えや考えが踏み込んできて、聖と汚れ、正しいことと間違っている事が混ざってしまいます。神様によってきよめられ、守られるために、みことばをしっかりと守って生きるようにしましょう。(2020年6月27日公開)




「どの民族のものとも違う法令」(エステル記 3 章)

 ハマンは、モルデカイに腹を立てていました。ハマンにひざをかがめよと王が命じたのに、モルデカイが従わなかったからです。ハマンは、モルデカイを殺すだけでは満足しようとせず、モルデカイの民族であるユダヤ人全員を滅ぼすことを計画しました。そして、くじを投げて、ユダヤ人を滅ぼす日を決めました。ハマンは、すべてが自分の思いどおりになると考えていました。

 聖書は、神様を恐れないで弱い者いじめをする人のことを、厳しく責めています。ハマンは、王国内で弱い立場にあったユダヤ人を全員殺そうとするような人でした。だから、モルデカイはハマンにひざをかがめることを拒んだのでしょう。ハマンは、すべて自分の思い通りになると思っていました。でも、すべてを支配しておられるのはただ主おひとりです。モルデカイは、みんなと合わせて間違ったことをするのではなく、主のおしえを重んじることを選びました。そして主は、みことばで約束しておられるとおりに、悪い者を滅ぼし、主を信頼する弱い者を救ってくださったのでした。(2020年5月16日公開)




「もしかすると、このような時のためかもしれない」(エステル記 4 章)

 ハマンの陰謀によって、ユダヤ人全員が滅ぼされるという法令が出されてしまいました。その時、モルデカイは自分が王のところにいって救いを求めるのではなく、エステルがそうするように、彼女に命じました。主が、そのように導いておられると考えたからです。でも、それはいのちがけの行為でした。失敗すると、エステルも、モルデカイも、すべてのユダヤ人も滅びることになってしまいます。でも、モルデカイは「助けと救い」が必ず与えられることを信じていました。そして、神様のみこころやご計画は確実には分からないけれど、自分の身の安全だけを考えて黙っていることだけはしてはならない、と確信していました。エステルも、言い訳をして逃げるのではなく、いのちをかけて主に従って行動することを選びました。そして、エステルもモルデカイも、ユダヤ人も、断食して熱心に祈りました。(2023年4月6日公開)




「ヨブの三人の友」(ヨブ記 2 章)

 ヨブは、財産のすべてを失い、子どもたちすべてを失い、悪性の腫瘍で足の裏から頭の頂まで打たれても、神様に逆らうようなことは口にしませんでした。しかし、その痛みと悲しみ、苦しみは、簡単には取り去られませんでした。

 そんなヨブのもとに、三人の友が訪ねて来ました。彼らは、ヨブに同情し、ヨブを慰めようとして、互いに打ち合わせてやって来たのです。そして、声をあげて泣き、七日七夜、地に座り続けました。

 ヨブの三人の友は、心から友を心配し、慰めようとした素晴らしい信仰者たちでした。しかし、彼らもヨブと同様、神様のみこころが分からず、苦しみました。そして残念なことに、ヨブを慰めるのではなく、議論し、非難するようになってしまいました(3-27 章)。

 苦しみの中にある友に対して、私たちは何をすることができるでしょうか。ヨブ記を通して、よく教えられ、真に友を慰めることのできる人にならせていただきたいと思います。(2020年1月18日公開)




「苦しみの中で、もがくヨブ」(ヨブ記 6 章)

 ヨブは大切な子どもたちや一緒に住み助けてくれていたしもべたちを失ってしまいました。家や多くの家畜たちも失い、自身も思い皮膚病にかかりました。そしてついには愛する妻からも見捨てられてしまいました。とっても辛く、悲しく、死にたくなる思いでした。なぜ突然そのような苦しみが自分に襲い掛かって来たのか分かりません。神に尋ね求めます、どうしてですか?そのような苦悶のとき、友人たちから慰めの言葉を聞きました。でもそれをヨブは受け入れることが出来ません。ヨブは、苦しみがさらに重くなり、深い海の底へと沈んで行きそうです。死にそうで死ぬこともできないのです。どうすればよいのでしょう?(2023年5月4日公開)




「苦しみの先にある望み」(ヨブ記 7 章)

 ヨブは、この苦しみの先には望みなんかないと考えました。そして、もう望みはないのだから、放っておいてほしいと主に願いました。でも、主はヨブのことを見放したりしないで、ずっと目を留め、心にかけ、関わり続けておられました。それは、この苦しみの先にはすばらしい望みがあることを知っておられたからです。

 私たちも、もう望みなんかない、と思うことがあるかもしれません。でも、神様はあなたのことを見捨てたりなさいません。だから私たちも、ヨブのように神様に正直に語り続けるようにしましょう。苦しみを訴える叫びであったとしても、神様とそうやって正直につながっている人には、だんだんと分かってくることがあります。イエス様の十字架の意味や神様の御愛が、分かってくるのです。それこそが、かけがえのない望みです。(2020年1月27日公開)




「このような者に対してさえ」(ヨブ記 14 章)

 ヨブは、長く続く苦難の中で、どうして神様が自分と関わり続け、苦難をお与えになるのかが分かりませんでした。ヨブは、自分はどうせ死んでしまうし、死んだ後も罪のせいで神様に受け入れていただけない、と考えていました。 だから、生きることにも、死ぬことにも、望みを見出すことができませんでした。

 人はみな、やがて死んでしまうし、汚れから完全に切り離すこともできません。死ねば自動で罪がなくなるわけでもありません。では、神様はどうして、「このような者に対してさえ」目を留め、関わろうとなさるのでしょか。それは、神様が人を大切に思い、イエス様の十字架によって、人の罪を赦し、新しいいのちに生かしたいと願っておられるからです。あなたは、神様にとってとても大切な存在で、神様に愛されているのです。(2020年2月2日公開)




「知恵と悟り」(ヨブ記 28 章)

 ヨブは、三人の友との激しい議論を終えた後、「知恵と悟り」について語りました。それは、鉱山の奥深くに隠れている金や銀やダイアモンドよりも見つけるのが難しく、人がどれほど努力しても自力では得られないものだと言います。

 しかし、人はその「知恵と悟り」を得ることが出来るのだとヨブは言います。その方法は、主がおっしゃる通り、主を恐れ、悪から遠ざかって生きることだ言うのです(28 節)。

 そうだとすれば、他の何物にも代えがたいこの「知恵と悟り」を、ヨブはすでに見出していたと言えます。ヨブ記1章1,8節には、ヨブが地上のだれよりも誠実で、主を恐れて悪から遠ざかっていたと証言されています。ヨブは、主のことばをどんな宝よりも大切にし、その教えに従って生きていた人だったと言えます。そして、主は、そんなヨブをとても大切に思ってくださり、ますます尊くお用いになろうとしていたのです。(2020年2月17日公開)




「神を知らない友が救われるために」(ヨブ記 42 章)

 ヨブは、特別な苦しみの中で、神様に叫び続けました。三人の友は、ヨブは間違っていて、自分たちこそが正しいと考えてヨブを責め続けました。でも、本当に神様とつながり続けていたのはヨブで、三人の友人は神様から離れてしまっていたのでした。最後に、神様はこの三人に激しい怒りを燃やされました。でも、神様はヨブに、この三人のために祈ってあげるように、と仰いました。そして、ヨブは神様に聞き従って友人たちを赦し、祈ってあげました。そうして、この三人の友は、自分たちが神様から離れていたことを知り、神様に赦していただいたのでした。

 ヨブが経験した苦しみは、ヨブの友人たちが救われるためのものだったと言うことができます。そしてそのことは、イエス様が十字架にかかってくださったのは、私たちが救われるためだったということを教えているのだと言えます。(2023年5月18日公開)




「幸いなことよ」(詩篇 1 篇)

 今日から詩篇を読みます。詩篇は、聖書の中の賛美歌集で、主への賛美や祈りが記されています。詩篇を読み、一つひとつ心に留めていくことで、私たちの賛美や祈りが変えられ、深められていきます。心を込めて読んでいきましょう。

 詩篇は、「幸いなことよ」ということばで始まります。主は、私たちに「幸いな人」であってほしいと願っていてくださるので、詩篇全体を通じて、そうなることが出来るように教えていてくださいます。「幸いな人」であるためにまず大切なのは、「昼も夜も主のおしえを口ずさむ」ことです。主のおしえを大切にし、いつも思い巡らして口にしている人は、主との親しい交わりの中で、豊かな恵みを受けながら生きることができるのです。(2023年7月11日公開)




「主に油注がれた王」>(詩篇 2 篇)

 詩篇2篇は、主に選ばれた王について、私たちに教えています。「国々、もろもろの国民(くにたみ)、地の王たち、君主たち」は、自分たちの思うままに生きようと、主が選ばれた王に逆らうことがあります。そうして、混乱や争いが生じます。ですが主は、「わたしが わたしの王を立てた」とはっきりと宣言し、この王に逆らう者たちを激しくお怒りになります。主は、主が定めた王が、地の果ての果てまでを治めることを願っておられます。それが、すべての人が、滅びることなく平和に生きる道だからです。

 主は、ダビデたちを王としてお選びになりましたが、そのダビデに対して、永遠に滅びることのない国の王座にとこしえに着く真の王が現れると約束してくださいました。その永遠の真の王こそ、神の御子イエス・キリストです。イエス様を王とし、恐れつつこのお方に仕える人こそ、ほんとうに幸いだと聖書は教えているのです。(2023年8月21日公開)




「私はあなたに身を避けます」(詩篇 7 篇)

 ダビデは、彼のたましいを引き裂こうとする凶暴な敵に追われていました。その時、ダビデは敵と向き合って戦うのではなく、「私の神 主よ 私はあなたに身を避けます」と祈って、主のもとに逃げ込むことを選びました。ダビデは、主が生きておられ、正しい者と悪い者にそれぞれふさわしいさばきをしてくださることを信じていたので、主のさばきにすべてをゆだねることにしたのでした。そして、主のもとに逃げ込んだあとは、まだ問題は解決されていなかったけれど、安心して主をほめたたえたのでした(17)。

 あなたも、どんな時でも、どんな状況でも、主のもとに身を避けることができます。そして、主のもとに身を避けたなら、あとは安心してお任せすれば良いのです。(2023年9月28日公開)




「人とは何ものなのでしょう」(詩篇 8 篇)

 月や星、海や山など、天と地のすべては、創造者である主のすばらしさをほめたたえています。ダビデは、そんな天や地を見ながら、大きな驚きを感じて言いました。「人とは何ものなのでしょう」。天地万物をお造りになった主が、ほかのどんな被造物でもなく、「人」に心を留めておられることに、ダビデは心から驚いているのです。主は、ちりから造られたにすぎない「人」に、いのちの息を吹き込み、特別に愛し、特別な誉れを与えてくださいました。さらに、主はこの「人」のために、ご自身の最愛のひとり子イエス・キリストのいのちさえ、お与え下さったのです。

 天地万物を造って治めておられる主が心に留め、そのひとり子のいのちさえ与えて下さった私たちとは、いったい何ものなのでしょう。どのように主に応答して生きれば良いのでしょう。驚きつつ、思い巡らしてみましょう。(2019年10月6日公開)




「愚か者は心の中で」(詩篇 14 篇)

 口先ではどれだけ神様を信じていると言っていても、心の中で「神はいない」(神は何もなさらない)と考えて生きている人のことを、聖書は「愚か者」と言います。なぜなら、神様を軽んじ、神様のさばきを恐れずに生きる人は、主の目に悪であることを必ず行うようになり、やがて主にさばかれることになるからです。口先でどんなことを言っているとしても、心から神様を重んじ、恐れ、神様を求める生き方をしていないなら、それは「愚か者」なのです。

 ダビデがこの詩篇を書いた時、イスラエルにはそんな「愚か者」がたくさんいて、悪がはびこっていました。ダビデは、「イスラエルの救いがシオンから来るように」(7)と祈りました。シオンは、主の家/神殿があったところ、礼拝が捧げられ、主のみことばが語られていた所です。主の民が回復させられ、喜びが溢れるようになるためには、心から主を重んじ、心から主を恐れる正しい者たちが礼拝を捧げることが大切なのです。(2023年10月12日公開)




「だれがあなたの幕屋に宿るのでしょうか」(詩篇 15 篇)

 前の詩篇でダビデは、心の中で「神はいない」と考えて生きる人は、主から離れ、行いが悪くなり、やがて必ずさばかれると言いました。では、心の中で「神はおられる」と考えていれば、それだけで良いのでしょうか。今日の詩篇では、口先だけの信仰告白ではなく、主のことばに実際に従って正しい生き方をする人が、主とともにいることができ、何があっても決して揺るがされない、と教えています。

 礼拝の前に、「私は主を礼拝し、主とともにいるのにふさわしいだろうか」と問いかけるようにしてください。そして、今日のみことばと反対の生き方をしているときは、悔い改めて、主に従う正しい生き方ができるよう、祈って下さい。そうやって主を礼拝し、主とともにいるなら、主が私たちの生き方をきよめて、支えてくださいます。(2024年1月13日公開)




「主のおしえは完全で」(詩篇 19 篇)

 自然界をじっと見つめると、驚くほど精密で確かな法則が働いていることが分かります。それらは耳には聞こえませんが、沢山の大切なことを私たちに語りかけています。たとえば太陽は、いつも同じ動きを完全に保っていて、あらゆる物に影響を及ぼしています。

 しかし、それらのどんなものよりも「主のおしえは完全で」、あらゆる人にすばらしい恩恵をもたらすことができます。主のみことばは、たましいを生き返らせ、知恵、喜び、きよさ、平安、ただしいさばきを与えるのです。主のみことばは、純金よりも慕わしく、滴り落ちる蜜よりも甘いのです。また、太陽の光さえも届かないような深みまで、私たちの心の深淵にまで、主のみことばは届き、罪を明らかにし、赦しときよめを与えることができるのです。そんな主のことばをいただきながら、私たちは主の御前で思いを巡らし、ことばを口にするのです。みことばにふさわしい思いとことばであるよう、願います。(2019年10月12日公開)




「主は私の羊飼い」(詩篇 23 篇)

 ダビデは、ゴリアテに勝利して戦士になるまでは羊飼いでした。ダビデは、自分がよく知っている羊と自分を重ね合わせて、主が自分の羊飼いであることの幸せを歌っています。羊は、自分たちだけでは緑の牧場も水飲み場も見つけられません。彼らはすぐにパニックに陥って、道に迷ってしまいます。少しでも怖いことが起こると怯えて我を失い、放っておくと野獣の餌食にされてしまいます。そんな羊たちにとって、良い羊飼いに導かれることこそが、何よりの幸せでした。

 ダビデは、主を羊飼いとして歩むことの幸いを歌い上げています。まるで猟犬が獲物を追い続けるように、主の「いつくしみと恵み」は、主の羊を追い続け、永遠に主の家に住まわせるのです。「主は私の羊飼い」。そう告白できることは、何と幸せなことでしょう。(2019年7月25日公開)




「私の願いの声を」(詩篇 28 篇)

 あなたは、自分の「願いの声」をだれに伝えようとしているでしょう。

 ダビデのまわりには、主を信頼しないで、自分の力で自分の思い/願いを実現しようとする人たちがいました。彼らは、主が生きておられて、確かに御業を行っておられることを知ろうとしなかったので、主の目に悪いことを行っていました。ダビデは、そんな人たちとは違う生き方を選びました。主を無視して自分の願いをかなえようとするのではなく、主を信頼し、主が最善を行ってくださることを信じて、主に「願いの声」を聞いていただくことを第一としたのです。主が祈りに答えてくださらないと思えるような時も、ダビデは信じて祈り続けました。そして、実際に主の御業を体験し、「主は私の願いの声を聞かれた」と喜び、賛美しました。

 あなたは、自分の「願いの声」をちゃんと主にお伝えしていますか。(2024年2月13日公開)




「神はわれらの避け所」(詩篇 46 篇)

 神様がおられるところにしっかりと留まっていれば、何があったとしても大丈夫。今日の詩篇は、そのことを教えています。そこは、敵からの攻撃をまったく受けないということではありません。でも、そこにしっかりと留まって神様を信頼していれば、神様が敵を退けて私たちを守ってくださるのです。

 神様がおられるところを、今日の詩篇は「神の都」と呼んでいます。そしてそれは、イエス様を信じる人たちの集まりである「教会」だと新約聖書は教えています。(2019年10月2日公開)




「愚か者は心の中で」(詩篇 53 篇)

 口先ではどれだけ神様を信じていると言っていても、心の中で「神はいない」と考えて(神様を無視して)生きている人のことを、聖書は「愚か者」と言います。なぜなら、神様を無視して、神様のさばきを恐れずに生きる人は、神様の目に悪であることを必ず行うようになり、やがて神様にさばかれることになるからです。口先でどんなことを言っているとしても、心から神様を重んじ、恐れ、神様を求める生き方をしていないなら、それは「愚か者」なのです。

 ダビデがこの詩篇を書いた時、イスラエルにはそんな「愚か者」がたくさんいて、悪がはびこっていました。ダビデは、「イスラエルの救いがシオンから来るように」(6) と祈りました。シオンは、神の家/神殿があったところ、礼拝が捧げられ、神様のみことばが語られていた所です。神の民が回復させられ、喜びが溢れるようになるためには、心から神様を重んじてみことばに聞き従う者たちが礼拝を捧げることが大切なのです。(2019年10月6日公開)




「あなたの道は 海の中」(詩篇 77 篇)

 エジプトを出た後、イスラエルの民は葦の海の前で絶体絶命のピンチに立たされました。後ろから、エジプト軍が迫っていたのです。民は諦めそうになり、絶望して主に叫びました。でも、主は海を分け、海の中に道を造り出し、ご自身の民を羊の群れのように導いて救ってくださいました。

 「もうだめだ」。そう思って叫ぶようなことがあるかもしれません。しかし、諦めてはいけません。主は、海の中に道を造り出してくださるお方だからです。絶望しそうになるときこそ、聖書をよく読み、主の御業を思い巡らすようにしましょう。主は、昔も今も変わることのないお方であり、あなたを救うことがお出来になるのです。(2020年1月6日公開)




「新しい歌を主に歌え」(詩篇 96 篇)

 イスラエルの民は、モーセの時代に、奴隷の家であったエジプトから救い出されました。彼らはその救いに感謝し、賛美の歌をたくさん作って、主を賛美しました。今日の詩篇は、イスラエルに与えられた救いとは別の、新しい救いが与えられることを教えています。それは、イエス様が与えてくださる救いで、私たちを罪と滅びから救い出してくださる救いです。その救いは、イスラエルだけでなく、地上のあらゆる人々に差し出されている救いです。

 新しい喜びで心が満たされると、新しい歌が湧き上がってきます。イエス様が十字架で成し遂げてくださった新しい救いの素晴らしさをよく知って、新しい歌を主に捧げましょう。また、信仰の歩みの中で、主が与えてくださるたくさんの救いをいつも心にとめて、新しい感謝と喜びで満たされて主を賛美しましょう。主は、どんなときにもあなたを救ってくださるお方です。新しい歌を、主に歌い続けましょう。(2020年5月2日公開)




「わがたましいよ 主をほめたたえよ」(詩篇 103 篇)

 1,2,22 節で繰り返されている「ほめたたえよ」ということばには、「ひざまづけ」という意味があります。詩人は、「主がよくしてくださったことを何一つ忘れない」ようにして、主の前でひざまづいて礼拝せよ、主を恐れて聞き従え、と呼びかけています。そうすれば、3-5 節で言われているように、これからも、咎が赦され、豊かな恵みを受けて生きることができるというのです。

 主がしてくださった良いことを簡単に忘れてしまう人は、主の御前から簡単に離れてしまいます。主のみことばに耳を傾けることも、聞き従おうとすることもしなくなってしまうのです。そして、そのような人は、咎を赦していただくことも、日々の歩みに恵みをいただくこともできなくなってしまいます。

 主は、あなたにどんな良いことをしてくださいましたか?あなたは、その恵みを覚えて感謝し、主の前にひざまづいて礼拝を捧げているでしょうか?どうぞ、イエス様の十字架の恵み、赦しの恵みを忘れないで、御前でひざまづいて礼拝する者であってください。(2020年5月9日公開)




「心を尽くして主に拠り頼め」(箴言 3 章)

 人生を歩む中で、私たちが頼りにするものはいくつもあると思います。健康やお金、人との良い関係や賢さなど、色んなものを頼りにしながら、人は生きています。それらは、大切なものだと言えます。では、私たちは何を一番に信頼すべきでしょうか。箴言3 章5,6 節は、「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ」と教えています。

 主に拠り頼むということは、主を信頼して、主が仰るとおりにする、ということです。そしてそれは、「心を尽くして/心のすべてで」するべきことだと言われています。困ったときだけ、気が向いたときだけ、ということではなく、心の一部分でだけ、ということでもなく、どんなときも、心のすべてで、主を信頼して、主に聞き従いましょう。その収穫は、黄金や真珠よりはるかにまさり、あなたは本当に幸いな人にしていただけます。(2020年3月2日公開)




「誘惑から人を守るもの」(箴言 7 章)

 今日の聖書箇所には、悪い誘惑に遭い、滅びの道に進んでいく若者の姿が描かれています。誘惑は、「本心を隠して」近づいてきて、滑らかで魅力あることばで語りかけ、あらゆる方法でその人を罪へといざないます。だから、「浅はか」 で「良識のない」(7) ままでいると、誘惑に陥り、滅びの道を進むことになります。

 そんな誘惑から「自分を守る」(5) ためには、主のみことばを「自分の瞳のように守る」(1,2) ことが大切だと聖書は言います。4 節にあるように、みことばによって与えられる知恵を、愛する伴侶(4 節の妹は花嫁を、身内は夫を意味します)のように大切にし、この知恵と共に生きることが大切なのです。

 誘惑は、あなたを滅びに向かわせることを慕って、あなたに語りかけます。しかし、あなたを幸いに生かすことを慕っておられる主は、それ以上にあなたに語りかけておられます。「わが子よ。私のことばを守り、私の命令をあなたのうちに蓄えよ」(1)。(2020年3月8日公開)




「知恵のある子」(箴言 13 章)

 イスラエルでは、大人たちが子どもたちに、いつも神様のみことばを伝えていました。そして、神様のみことばをよく聞く子は、神様と親しい交わりをいただいて、「知恵のある子」として成長していきました。

 今も、教会では神様のみことばが語られています。どうぞ、神様のことばをよく聞くようにしてください。そうやって神様と親しい交わりをいただくと、心が満たされて、幸いな生き方をすることができます。(2020年3月17日公開)




「空の空」(伝道者の書 1 章)

 伝道者の書を書いたソロモン王は、「空の空。すべては空」ということばでこの書を始めています。「どんなに労苦しても、それが人に何の益になろうか」と問いかけているのです。あなたは、人が何をしたとしても、結局は空しいと思いますか?

 この後、ソロモンはありとあらゆることを試したことを私たちに伝えます。知恵と知識を増したり、快楽にふけったり、すごい仕事をしたり、哲学にふけったり、財産を莫大にふやしたり、とにかく真面目で立派な生き方をしようとしたり、ありとあらゆることをします。そして、すべてのことについて、「やはり空しい」というのです。

 そんなソロモンですが、この書の最後に、「くう」ではない生き方があることを教えています。12 章1 節、13 節を読んでみてください。あなたは、空しくない人生を精一杯生きるために、どうすればいと思いますか?(2020年4月9日公開)




「神の宮へ行くときは」(伝道者の書 5 章)

 神様の御前に出るときには、まず、神様のみことばをしっかりと聞くようにしましょう。そのことは、自分の考えや願いを訴えることよりも大切です。また、神様に向かって語る( 祈る) ときには、よくよく考えた上で、ことばを口にするようにしましょう。真心から考えていないことを、口にするのはよくありません。また、「私はこうします」と神様に約束をするとき、責任をもって約束をし、約束したなら必ず果たすようにしましょう。果たせない約束を口にするのは、神様を軽んじることになります。

 神様の御前に出て、しっかりとみことばに教えられ、よく考えた真心からの祈りをささげ、自分に出来ることをしっかりと果たす。そのように生きるとき、神様は必要なものを与え、その人が日々の労苦/努力を喜ぶことができるようにしてくださいます。そして、その人は、色々なことで悩んだり後悔したりすることなく、喜びで満たされて歩むことができます。神の御前に出て、みことばを聞き、祈り、しっかりと歩みましょう。(2020年4月9日公開)




「神を恐れよ。神の命令を守れ」(伝道者の書 12 章)

 「神を恐れよ。神の命令を守れ」(13)。これが、伝道者の書が私たちに伝えている大切な結論です。

 この伝道者は、「思索し、探求し」(9)、私たちに分かるように大切なことを伝えました。知恵と知識を追求し、熱心に働いて莫大な財産を築き、色々なことを喜び楽しんだり、哲学的な事柄も深く考えました。そうして、彼が辿り着いた一つの結論は、「空の空。すべては空」(8) ということでした。この地上で、どんな時にどんなことをしたとしても、それは本当の意味で永遠の価値があるものではない、と言うのです。でも、この伝道者は、だからといって人生には意味も価値もない、とは教えていません。むしろ、本当にむなしくないことがあり、人はそのことを大切にすべきだと教えています。その空しくないこととは、神を恐れ、神の命令を守って生きることです。私たちは、全員が間違いなく死ぬことになります。そして、死後に神様の前に立ち、審判の座に着きます。だから、その神様を恐れ、聞き従って生きる生き方こそが、永遠の意味と価値を持つ生き方であり、人にとっての真の幸いだと教えているのです。あなたは、空しくない幸いな生き方をしていますか?(2020年4月13日公開)




「歌の中の歌」(雅歌 1 章)

 「」という書名の原文は「歌の中の歌」(最高の歌)です。この書には、結婚を約束し合って婚約していた一組の男女が登場します。そして、お互いが相手をほめたたえ、自分が相手のことをどれほど大切に思っているか、愛しているか、ということを心を込めて歌い合っています。神様の御前で結婚するということ、そして、そのようにして愛し合うということが、どれほど素晴らしいかということが教えられます。

 本書に登場する一組の婚約者の間にある愛は、神様と神様の民との間にある愛について教えています。神様が、神様を信じる人たちのことをどのように見ていてくださるか、どれほど大切に思い、どれほど愛していてくださるか、本書を通して味わわせていただきましょう。そして、私たちも、本書を通して、神様に最高の歌、愛と感謝に満ちた賛美を捧げさせていただきましょう。(2020年4月14日公開)




「イエス様をお迎えする準備」(雅歌 6 章)

 この女の人は、愛する人との結婚が近づくと、谷の新緑を見るために、くるみの木の庭へ下って行きました。一番良い場所で、一番良い時に愛する人をお迎えできるよう、用意していたのです。すると、その時、その場所に、結婚のためのお迎えがやって来ました。

 聖書は、私たちの愛する主イエス様が、再び天から来て、私たちを天国に迎え入れてくださると教えています。これを「さいりん」と言います。私たちは、今、その日を待っている花嫁なのだと聖書は教えています。イエス様を、一番良い時に、一番良い状態でお迎えすることができるよう、いつも用意しておきましょう。イエス様は、一番良い時に、一番良い状態で待っている花嫁を、必ず迎え入れてくださいます。(2020年4月19日公開)




「主を恐れることを喜びとし」(イザヤ書 11 章)

 イザヤは、何もかもがなくなってしまったかのように思えるところから、ダビデの子孫として救い主がおいでになる、と預言しました(1)。そしてこの救い主は、「主を恐れることを喜びとし」(3)、弱い者や貧しい者のために正義と公正をもってさばきを行い、悪しき者をご自身のことばによって滅ぼしてくださるのだと言います。さらに、この救い主によって、「主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちる」(9) ようになり、主を知るようになった人々が主を恐れることを喜び、互いに平和に暮らすようになると預言しました。

 この預言から約七百年後にこの世に来て下さった主イエスは、まさに、預言されたとおりの救い主です。私たちは、貧しい者として生まれ、人々から捨てられて十字架におかかりくださった主イエスによって、神である主を本当に知ることができるようになりました。私たちに御子を与えて下さった主を恐れることを喜ぶ者であらせていただきましょう。(2019年5月12日公開)




「モアブの高ぶり」(イザヤ書 16 章)

 主は、高ぶって主に逆らい続けるモアブに対して、悲惨なさばきが訪れることを預言しておられました。でも、主は、そのようにして滅びることになるモアブのために心を痛め(9,11 節)、何とかして救いを与えようと願ってくださいました。そして、主の民であるユダに対して、さばきを受けて苦しむモアブの民が助けを求めてきたら助けてあげるように、とお命じになりました(3,4 節)。でも、モアブは結局、自分の力を誇り、高ぶり続け、主が差し出してくださった救いの手を拒絶しました。最後まで、自分の力と偶像に拠り頼んで、とうとう滅びることになってしまったのです。

 私たちはどうでしょうか。高慢になって主の語りかけを無視していないでしょうか。高ぶって主に逆らう者には、必ずさばきが来ます。主が差し出していてくださる救いの手であるイエス様に、しっかりと身を避けて留まっているようにしましょう。(2019年5月12日公開)




「おごった都」(イザヤ書 22 章)

 間違ったものに目を留め、間違った生き方を続けるならさばきが訪れる。今日の聖書箇所は、そのことを私たちに告げています。ユダの都エルサレムは、山の上にある町で、主によって建てられた麗しい都でした。しかし、その民は主を無視し続け、「おごった都」になってしまいました。それ故、徹底的なさばきと滅びが必ず来ることを、イザヤは預言しました。しかし、そのような主の警告を聞かされても、彼らは自分たちの力や知恵や考えばかりに目を留め、主には目もくれず、主の警告を無視し続ける。イザヤはそう預言しました。さばきが自分たちを取り囲んでいても自分たちの力で何とか出来ると考え(8-11)、悔い改めを迫られても、勝手に諦めて刹那の遊興に身を委ねる(12-14)。それが彼らの姿でした。

 聖書は、主に目を留めず、主の語りかけを無視し続ける民のおごりは、必ず壊滅的なさばきを招くと警告しています。与えられた主の守りや祝福を自分の特権や功績によるものと勘違いして驕ったり、主のあわれみを勝手に見限って悔い改めを放棄したりすることがないようにしましょう。(2019年5月12日公開)




「主は知恵のある方」(イザヤ書 31 章)

 やっぱり自分の考えが正しくて、相手が間違っていた。人間同士だと、そんなことも起こると思います。でも、主に対しては、いつも謙遜に、主のほうが正しいということをわきまえていなければなりません。

 ユダの人々は、アッシリアが攻めて来ようとしていたとき、エジプトと同盟を結ぶことこそが一番賢いやり方だと考えました。主は、預言者イザヤを通して、それは良くない判断だ、主だけを信頼して救いを得よ、と何度も語りかけておられました。ですが、彼らは自分たちの判断こそが正しいと考え、主のみことばを軽んじ続け、語られていた とおりのさばきをその身に招いたのでした。

 主は、私たちの最善を願って、最善のおしえを与えてくださる「知恵のある方」です。ユダの人々は、へりくだって主のみことばに耳を傾け、主のみこころを教えられて、みことばに聞き従うべきだったのです。あなたは、語られている主のみことばを軽んじて、自分の考えを優先させていないでしょうか。主が語っていてくださるみことばこそが、あなたにとっての最善だということをわきまえる知恵を持つようにしましょう。(2019年5月12日公開)




「聖なる道」(イザヤ書 35 章)

 どんな宗教を信じていても、最終的には真の神様のもとへ行くことが出来るのでしょうか。聖書は、そうではない、と教えています。

 今から約2700 年前、預言者イザヤは、あらゆる国々で、罪が赦され、主の民とされて、主を礼拝するようになる人たちが起こされることを預言しました。イザヤは、その人たちは、「聖なる道」(特別な道)を通って、主のもとにやって来るのだと言いました。

 その預言から約700 年後、イエス様が私たちのもとに来て下さいました。そして、私たちのために十字架におかかりくださり、私たちの罪が赦されるただ一つの特別な道を切り開いてくださいました。イエス様が用意してくださったこの救いこそ、「聖なる道」なのだと聖書は教えています。イエス様を救い主として信じ、その救いに感謝して喜んで礼拝を捧げるとき、私たちの礼拝は真に主に受けいれられる、喜びと祝福に満ちたものとなるのです。イエス様が用意してくださった救いの道を、共に喜んで歩みましょう。

 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
  わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」
   ヨハネの福音書14 章6 節(2019年5月19日公開)



「母の胎内にいるときから」(イザヤ書 44 章)

 母親の胎内にいる赤ちゃんは、まだ何も知らず、何もしていないときから、愛され、守られ、大切に養われます。それと同じように、イスラエルの民も、まだ何も知らず、何もしていないときから、主に愛され、守られ、育まれてきました。何かをしたから愛されたのではなく、ただただ愛され、語りかけられ、守られ、主の民として育まれてきたのです。そして、彼らが主の民として歩み続けるために必要な「主の霊」が、必ず与えられると約束されました。

 偶像は、人が木や石を材料にして作らなければ存在することさえ出来ず、そこにいのちはありません。また、それは単なる物なので、人に語りかけることも人を助けることも出来ません。しかし主は、ご自身の御力とご計画によって私たちにいのちを与え、愛し、育み、語りかけ、救ってくださるのです。また、民の罪を赦し、清め、罪の力とさばきから贖い出し、必ず良いことをすると約束してくださるのです。

 あなたは、何かを学び、何かをしたから主に愛されているのではありません。主は、ただただあなたを愛していてくださるのです。その愛に、しっかりと立ち返り、主の御霊による交わりに留まり、みことばに応答しながら歩ませていただきましょう。(2019年5月26日公開)




「永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ」(イザヤ書 54 章)

 主は、主のみことばを信じて生きたアブラハムを愛し、その子孫(アブラハムと同じように主を信じる人々)に、豊かな祝福を与えると約束してくださいました。イスラエルの民は、主のみことばを聞かずに罪を犯し続けたので厳しいさばき( バビロン捕囚) に遭いましたが、それでも、主は「永遠の真実の愛」をもってご自分の民を愛し続け、信仰の訓練をお与えになり、守り導いてくださいました。そうして、彼らはバビロンの地から解放され、もう一度、約束の地で主と歩むことができるようになりました。

 主を信じて生きるようになった人たちのことを、主は「永遠の真実の愛」で愛していてくださいます。そして、その御愛は永遠に変わることがありません。私たちは、ときに罪を犯して主から離れてしまうことがあるかもしれません。ですが、御子イエス・キリストを私たちにお与え下さった主の御愛と約束は変わることはありません。「永遠の真実の愛」をもって愛していて下さる主を信頼し、いつまでも、主の民として誠実に歩ませていただきましょう。(2019年6月5日公開)




「主が好まれる生き方」(イザヤ書 58 章)

 今日の聖書箇所には、「断食」ということばが何度も登場します。聖書では、毎年第七の月の十日に、断食をすることが命じられています(レビ16:29)。その日は、特別な「宥めの日」で、私たちの罪を赦してきよめるために、主が特別な犠牲を与えて下さることを覚える日でした。主は、私たちが色々なことを我慢して、いやいや宗教的な行為をすることではなく、私たちが主の恵みに感謝して、自分が受けた恵みをほかの人と分かち合おうとする生き方を喜んでくださいます。主イエスは、あなたを救うために、喜んで犠牲を払ってくださいました。私たちも、その恵みに感謝し、主が喜んでくださることを喜んでするようにしましょう。そのとき、主とともにいられることが何よりの喜びとなり、いよいよ豊かな祝福が与えられます。(2019年6月11日公開)




「エレミヤの召命」(エレミヤ書 1 章)

 エレミヤは、まだ若かった時に主のみことばを人に語るように召されました。その時代は大変な時代で、だれも主のことばに耳を傾けようとしなかったので、エレミヤには恐れもありました。ですが主は、「わたしがあなたに命じることを語れ」とお命じになり、語るべきことばを与えてくださいました。そして、「わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出す」と約束してくださいました。

 イエス様を信じた人たちは、みんな、イエス様の福音を人に伝えるように召されています。主は、その人たちに聖霊を与え、主のことばを伝えることができるように助け導き、いつもともにいてくださいます。エレミヤ書から、みことばを宣べ伝えることを学んでいきましょう。(2019年6月20日公開)




「生き方と行いを改めよ」(エレミヤ書 7 章)

 エレミヤの時代、エルサレムの人たちは罪を犯し続けていながら、自分たちはひどいさばきにはあわないと考えていました。主に従わない祭司たちや偽預言者たちが、エルサレムには主の神殿があるから大丈夫、ひどい目にあうことはないと言い、民はそのことばを信頼していたのです。ですが、主は、「あなたがたの生き方と行いを改めよ」と仰いました。そして、主の警告を本気で聞こうとしない民に対して、主の憤りが注がれ、民の多くは敵によって虐殺されることを宣言なさいました。

 間違ったことばに耳を傾けて安心していると、罪を犯していることに恐れさえ感じなくなり、平気で罪を犯し続けるようになってしまいます。間違ってはいけません。たとえ礼拝に通っていても、主のことばを軽んじて罪を犯していると、必ず、さばきが訪れるのです。主のみことばに真剣に耳を傾け、懲らしめられることを願い、主に教えられ、導かれるようにしましょう。そのとき、「生き方と行い」は主によって変えられます。(2019年6月27日公開)




「なぜ、さばかないのですか?」(エレミヤ書 12 章)

 エレミヤは主に、なぜ悪者をすぐにおさばきにならないのですか、と問いかけました(1-4)。主は、一番ふさわしいときに、必ずさばきは行われる、とお答えになりました(5,6)。それも、主が「心から愛するもの」のすべてに、必ずさばきが来る、とおっしゃいました(7-13)。神様にさばかれなくて良い正しい者など、ひとりもいないのです。

 すべての人は罪を犯しているので、必ずさばきに遭います(14)。でも、悔い改めて主を信じるようになるなら、どんな人でも、必ず主に受け入れていただけるのです(15-17)。

【お祈り】主よ。さばかれるべき罪人の私に、悔い改めの機会をくださって感謝します。(2019年7月1日公開)




「燃えさかる火のようになり」(エレミヤ書 20 章)

 エレミヤは、人々から笑い者にされ嘲られても、打たれて牢屋に入れられても、主のことばを伝えることをやめませんでした。どれほど苦しくても、悲しくても、心に痛みがあっても、主のことばを伝えることから逃げ出しませんでした。エレミヤが耐えられなかったのは、人に馬鹿にされて苦しめられることではなく、主のことば、主のみおもいを自分の内に閉じ込めてしまうことでした。主のことば、主のみおもいが、彼の骨の中で燃えさかる火のようになっていたからです。

 主のことばは、主に背いて滅んで行こうとする人々を救うことができる唯一のものです。主のことばには、主の燃えるような愛や痛みや悲しみが込められているのです。

【お祈り】主よ。あなたのみことばを私のうちにお与え下さい。主の御愛や痛みや悲しみが、私の骨の中で燃える火となって、私がみことばを伝えざるを得ないようにしてください。(2019年7月9日公開)




「主が、私を遣わされた」(エレミヤ書 26 章)

 エレミヤが主の宮で主のみことばを人に伝えると、祭司と預言者と民全体が、エレミヤを嘘つき呼ばわりして、エレミヤを殺そうと言い出しました。でも、エレミヤは恐れずに、みことばを伝え続けました。12 節と15 節で、エレミヤは「主が私を遣わされた」と言っています。エレミヤは、自分の考えや願いに基づいて語っていたのではなく、主によって遣わされ、主が語っておられることを伝えていることをよく知っていました。だから、人を恐れるのではなく、主を恐れ、主が命じられたとおり、みことばを語り続けたのです。

【お祈り】主よ。人が救われるために必要な主のことばを、私も人に伝えることができますように。そして、伝える前に、あなたによって遣わされ、あなたが語っておられるみことばを語るのだということを、よく知ることができるようにしてください。(2019年7月14日公開)




「レカブ人の誠実とイスラエルの子らの不誠実」(エレミヤ書 35 章)

 レカブ人は、もともとはイスラエルの民ではありませんでしたが、イスラエルの地に寄留するようになった人たちでした。彼らは、先祖が命じた命令のすべてを守り行って歩んでいました。一方、主の民であるイスラエルの民は、主が多くの預言者を遣わして何度も何度も語りかけて下さったにもかかわらず、主の命令を守り行おうとせず、聞こうともしませんでした。先祖の命令にさえ忠実に聞き従ったレカブ人は、主からの祝福が約束され、主のみことばに不誠実な態度をとり続けたイスラエルの民には、滅びが訪れることになりました。

 どうせ、主のみことばを守ることなんて出来ない。そう考えてしまってはいないでしょうか。レカブ人の誠実な生き方から、あなたは、何を学ぶべきだと思いますか。

【お祈り】主よ。あなたのみことばに聞き従って生きるということを、簡単に諦めてしまわないよう、教え導いてください。(2019年7月24日公開)




「残された民の間に住んだエレミヤ」(エレミヤ書 40 章)

 ユダとエルサレムは、罪に対するさばきとして、バビロンに滅ぼされました。多くの者がバビロンに連れて行かれましたが、主は、彼らには平安が与えられると約束してくださいました。より大変だったのは、主のことばに逆らい続けて、ユダの地に残った者たちでした。預言者エレミヤは、バビロンに行って安全で豊かに暮らすことも出来ましたが、ユダの地に残された民の間に住むことを選びました。エレミヤは、主のことばに逆らい続ける者たちに、主のみことばを語り続けることを選び取ったのでした。(ヨハネの福音書1 章9-18 節も読もう)

【お祈り】主よ。みことばに従おうとしない者に対して、どこまでもあわれみを示してくださることを感謝します。語られているみことばに、聞き従いたいと願います。どうぞ、助けみちびいて下さい。(2019年7月29日公開)




「わたしのしもべヤコブよ、恐れるな」(エレミヤ書 46 章)

 エレミヤ書46-51 章まで、色々な国々の民についての主のさばきのことばが続きます。主は、イスラエルだけの神様ではなく、全世界の神様であり、あらゆる罪を公正にさばかれます。イスラエルの民も、その罪のために主のきびしいさばきを受け、エルサレムは滅ぼされ、バビロン捕囚という苦しみに遭いました。ですが、主を信じ、主のみことばに聞き従おうとする「主のしもべ」に対して、主は「恐れるな」と仰います。それは、きびしいさばきの最中さなかにあっても、主が彼らと共におられ、彼らを救ってくださるからです。主を信じる者たちであっても、罪を犯せば厳しい懲らしめに遭います。ですが、主を信じてみことばに聞き従おうとするなら、主は必ず、懲らしめの後に救いをもたらしてくださるのです。

 罪を犯して厳しい懲らしめに遭うとしても、主を信じ、主のみことばに聞き従うことについては、恐れず、おののかず、精一杯そうさせていただくようにしましょう。

【お祈り】主よ。たとえ懲らしめに遭うときでも、恐れず、おののかず、あなたに聞き従います。(2019年8月5日公開)




「あなたへの刑罰は果たされた」(哀歌 4 章)

 ユダ/エルサレムの人たちは、主の警告のみことばをあなどっていました。そして、罪を犯し続けた彼らは、主が警告しておられたみことばどおりに、厳しい刑罰を受けました。敵に囲まれて食糧がなくなり、飢え死にする子どもたちがたくさんいました。そして、多くの人たちが殺され、生き残った民も、バビロンに捕らえ移されてしまいました(バビロン捕囚)。こうして、主が語っておられた「刑罰は果たされた」(22) のでした。でも、その後、刑罰を受けて悔い改めた人々に、回復が与えられました。これもまた、主が語っておられた約束のとおりでした。

 主は、私たちの罪の刑罰を、最愛の御子であるイエス様に負わせてくださいました。そして、イエス様を救い主と信じて悔い改める人には、刑罰ではなく救いと回復を与えて下さると約束してくださいました。あなたは、この福音を信じますか。(2020年4月25日公開)




「みもとに帰らせてください」(哀歌 5 章)

 「哀歌」は、ユダ/エルサレムが自分たちの罪のために、どれほどひどい刑罰を受けたかということを嘆いている書です。みことばで語られていたとおり、罪を犯し続ける彼らへの主の怒りは極みに達し、彼らはこれ以上ないほどのさばきにあいました。その「哀歌」の最後に、詩人は、「主よ、あなたのみもとに帰らせてください」と祈っています。それは、罪に対する刑罰が完全に終われば、悔い改める者たちに赦しと回復が与えられるという主のみことばを信じていたからです。そして、そのとおりに、悔い改めた人たちは主に赦され、回復していったのでした。

 私たちの罪も、主は必ずおさばきになります。でも、罪に対するその厳しいさばきを、イエス様が十字架の上ですべて負ってくださいました。だから、悔い改めてイエス様を信じる人は、さばかれることなく、赦しと回復をいただくことが出来るのです。(2020年4月29日公開)




「その場所で主の御手が」(エゼキエル書 1 章)

 エルサレムの町がバビロン軍に攻められて、エゼキエルはバビロンの地に連れて来られました。でも、故郷から遠く離れたその場所で、エゼキエルは主からの幻を見て、主のことばを聞きました。そして、主のみことばを人に伝える預言者になりました。

 私たちがすべて順調にいっていると感じるときばかりではなく、もう希望はないとしか思えないようなときにも、主は全世界を治めておられ、あなたに語りかけてくださいます。どんなときでも、どんな場所でも、主を信頼して、主のみことばを聞きましょう。(2019年8月11日公開)




「見捨てられた、と言う人々」(エゼキエル書 8 章)

 エルサレムがいよいよ滅ぼされそうになっていたとき、イスラエルの人々は、ますます偶像崇拝を行いました。彼らは、「主は私たちを見ておられない。主はこの地を見捨てられた」と言い、ほかの神々に何とかして助けてもらおうと考えていたのでした。しかし、それは大きな間違いです。主は、ご自分の民をしっかりと見つめておられ、決して見捨てたりなさらないお方です。自分が犯した罪のために大変なさばきを受けているときでも、「主に見捨てられた」と考えてはなりません。むしろ、どうしようもない罪を犯した自分なのに、主は目をそらさずに見つめていてくださり、悔い改めを願い求め、待っていてくださることに心を留めましょう。そして、神以外の何かに頼ることをやめて、真の神である主のみことばを聞き、祈るようにしましょう。

【お祈り】主よ。あなたは私をお見捨てになりません。私も、あなたから目をそむけてしまうことなく、ちゃんと悔い改めることができるよう、助け導いて下さい。(2019年8月19日公開)




「立ち返って、生きよ」(エゼキエル書 18 章)

 主は、だれかほかの人の罪のせいで、あなたをさばいたりなさいません。また、だれかほかの人の立派な信仰のゆえに、あなたを救ったりもなさいません。主は、今、あなたがどのような生き方をしているかをよくご覧になり、判断してくださいます。以前にどれだけ立派な信仰生活をしていても、今、神様に背いて生きているなら、さばかれることになってしまいます。反対に、以前にどれほどひどい罪人として歩んでいたとしても、今、主に立ち返って主に聞き従って生きているなら、主は罪を赦して救って下さいます。主は、私たち一人ひとりの今の信仰と生き方を、ちゃんと見ていてくださいます。

【お祈り】主よ。どんなときでも、罪を犯せば悔い改めて、いつも主に立ち返って主に聞き従っていられるよう、助け導いて下さい。(2019年8月25日公開)




「主以外のものを慕い求めた結果」(エゼキエル書 23 章)

 イスラエルの民は、主を忘れ、主をうしろに投げやって、主以外のものを慕い求め続けました。アッシリアやエジプトやバビロンの力や富、そして彼らに御利益をもたらしていると考えられた偶像の神々を、慕い求めたのです。その結果、イスラエルの民は、それらのものに滅ぼされることになってしまいました。イスラエルの民は、主以外のものを慕い求めた結果、それらのものに慕い求められ、最後には滅ぼされてしまったのです。

【お祈り】主よ。あなた以外の何かを慕い求めていると、それらのものに最後には滅ぼし尽くされてしまうことを知りました。あなたをいつも忘れずに、あなたを第一にすることができるよう、教えみちびいて下さい。(2019年9月2日公開)




「預言者がいたことを知る」(エゼキエル書 33 章)

 バビロンにいたイスラエルの民は、「どんなことばが主から出るか聞きに行こう」と言って、預言者エゼキエルのもとに集まり、みことばを聞きました。ですが、彼らは聞くことは聞いても、「それを実行しようとしない」(31) のでした。

 預言者が語る主のことばは、そのような態度で聞くべきものでしょうか。エゼキエルが預言していたとおり、エルサレムは完全に滅ぼされてしまいました。預言者を通して語られる主のみことばは、聞いても聞かなくてもどちらでもいいようなものではなく、自分のいのちに関わる警告として、真剣に聞き、それに応答しなければならないのです。

あなたは、どんな気持ちで礼拝に集い、主のみことばを聞いているでしょうか。聞いたみことばに、どのように応答しようとしているでしょうか。(2019年9月8日公開)




「御名が聖なるものとされますように」(エゼキエル書 36 章)

 主の祈りで一番に祈られていることは、「御名が聖なるものとされますように」という祈りです。「聖なるものとされる」というのは、「特別なものとされる」ということです。今日の聖書箇所でも、主は、全世界の人々が、主の御名は特別なものであること、主は赦しと回復を与えて下さる特別なお方であることを知ることを願っておられるということが教えられています。私たちが努力をして立派になったから赦されるのではなく、主は、ご自身が特別なお方であることを知らせるために、私たちに救いと回復を与えてくださいます。そうやって、主の恵み、主の救いの福音が、全世界に知らされていくのです。主は素晴らしい救いと回復を与えて下さる特別な神様であること、主の御名は聖なるものであることを、多くの人が知ることができるよう、私たちも祈り、主とともに歩ませていただきましょう。(2019年9月16日公開)




「聖なる区域」(エゼキエル書 45 章)

 主の民は、民族全体に対して主から与えられた土地の中から、最上の部分を「聖なる区域」として主に献げるように教えられています。「聖なる」というのは、「特別に取り分けられている」という意味です。このことは、土地だけではなく、与えられた富や時間、能力にも同じことが言えます。主から与えられたものを、主に感謝し、主に命じられたとおりに捧げるとき、それはいよいよ豊かに用いられ、大きな祝福をもたらすものになります。

 主は、あなたのことをどうでもよい適当なものとはお考えにならず、あなたを救い、あなたを豊かに祝福するために、最愛の御子であるイエス様をお与え下さいました。その主があなたに与えて下さっているものを、あなたはどのように用いていますか。あなたの生活の中心には何があるのか、あなたに与えられた富や力、時間や能力は、だれのために、そして何のために用いられているのか、しっかりと考えてみましょう。(2019年9月24日公開)




「身を汚すまいと心に定め」(ダニエル書 1 章)

 ダニエルがバビロンに連れて行かれた時、彼は14 歳くらいでした。バビロンは、ユダを滅ぼした国で、とても恐い民族でした。バビロンのネブカドネツァル王は、気に入らない者はすべて殺すような王でした。そして、自分に完全に服従することをユダの民にも求めました。ダニエルと同じ時にバビロンに連れて行かれた優秀な若者たちは、バビロンの王に完全に服従しました。でも、ダニエルと三人の仲間(ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤ)は、「王が食べるごちそうや王が飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め」ました。主に仕えることを止めてまでして人間に過ぎない王に服従することは、主が喜ばれることではないと考えたからです。それは、いのちをかけた信仰の決断でした。

 そんなダニエルたちを、主は確かに守り、特別な祝福を与えてくださいました。バビロン帝国で高い地位につけられたのは、王に完全に服従した者たちではなく、主に仕えようとしたダニエルたちでした。ダニエルたちは、多くの人を守る人になりました。(2020年5月23日公開)




「人の子のような方が」(ダニエル書 7 章)

 イエス様がお生まれになる五百年以上も前に、ダニエルはある幻を見ました。四頭の恐ろしい獣が次々に現れる幻でした。それらの獣は、ダニエルの時代とその後の時代に登場する王たちを示していました。そして、現実の世界で、実際にそれらの王たちが現れ、恐ろしい力で国々を支配しました。それらの国々とは、歴史の教科書にも載っているバビロン王国、ペルシア帝国、ギリシア帝国、ローマ帝国です。ですが、どれほど強大な獣/王/国々でも、その主権と国は永遠には続きません。やがて、「人の子のような方」が現れ、神はそのお方に永遠の主権と永遠の国をお与えになる、というのです。そして、主の民である聖徒たちは、そのお方が治める国の民として、永遠にその国の民として生きる、というのです。

 ダニエルが幻の中で見た「人の子のような方」とは、イエス様のことです。そして、その民とは、イエス様を信じるクリスチャンたち、教会のことです。どれほど強大な王や国々がその恐ろしい力で世界を支配しようとしても、イエス様を信じる民は、永遠の主権を与えられた王であるイエス様の民として守られ、生きることが出来るのです。(2020年6月5日公開)




「ホセアにあった主のことば」(ホセア書 1 章)

 ホセアの時代、イスラエルの民は主に背を向け、主以外のものを愛してそれを追い求めることにふけっていました(2)。そのようなイスラエルの民に語りかけるために、主は預言者ホセアにみことばをお与えになりました。「行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ」。やがて自分を裏切って他の人を愛するようになる人と結婚することが、どれほど辛く苦しいことか、ホセアは想像することが出来たと思います。でも、ホセアはそれでも主を信頼して、主のみことばに聞き従いました。そうしてホセアは、主の悲しみや痛みを知る者として、そして、みことばによって主にある希望を知らされながら、主のみことばを取り次いだのでした。

 主のみことばを伝えるために、主と同じ心にされていくことは大切なことです。主を信頼し、主のみことばに聞き従い、主のみことばを伝える者とされていきましょう。(2019年10月30日公開)




「癒やすとき、悪はあらわになる」(ホセア書 7 章)

 重い病気は、その原因が分からなければ癒やせません。同じように、罪に汚れた状態から癒やされるためには、罪が明らかにされる必要があります。イスラエルは、自分たちの罪のせいでどれだけ苦しい目に遭っても、主に立ち返ろうとしませんでした。次々に王を入れ替えることで助かろうとしたり、強い外国に取り入ることで救われようとしました。でも、主に立ち返ろうとしない、主を呼び求めようとしないという根本的な罪を改めようとしなかったので、益々苦しみは激しくなりました。そして、最後には国が完全に滅ぼされ、民はアッシリアの地に捕囚として連れて行かれてしまいました。でも、そうやって苦しんだことで、主以外の何ものかにすがろうとする罪の根を知らされ、癒やしと回復へと進んでいったのでした。

 罪に気づかされることは、とても苦しいことです。でも、それは癒やしと回復のためには不可欠なことです。イエス様は、ご自身が受けてくださった十字架の苦しみを通して、私たちの罪をあらわにし、罪に気づかせ、救おうとしてくださいました。自分の罪、悪を知らされることは、主の恵みによるあわれみであることを覚えましょう。(2019年11月3日公開)




「わたしのほかに救う者はいない」(ホセア書 13 章)

 イスラエルは、エジプトの地で奴隷として苦しんでいたとき、神様によって救い出していただきました。そして神様は、荒野を歩む彼らを守り、約束の地に導き入れて豊かな祝福を与えて下さいました。しかし、イスラエルは自分たちが豊かになると、心が高ぶり、神様のことを完全に忘れ去ろうとしました。自分たちの思い通りに生きるために、神様に背いたのです。

 そんなイスラエルに、大変な苦しみが襲いかかりました。罪に対するさばきとして、アッシリア帝国が襲いかかったのです。イスラエルは、一度滅ぼされることになってしまいました。彼らを救って下さる唯一のお方である神様に背いていたので、彼らを助けてくれるものは何もありませんでした。

【お祈り】主よ。豊かになったからといって、あなたのことを忘れ去るという愚かなことをしないよう、守ってください。どんなときも、あなたのことばを聞いて歩めますように。(2019年11月13日公開)




「主の日は近い」(ヨエル書 1 章)

 ヨエル書は、ヨエルの時代に起こった災い(いなごと干ばつによる飢饉)を通して、これから実現する「主の日」に対して備えをするように教えています。

 いなごと干ばつによる飢饉は、豊かな収穫物によって心が高ぶり、主を侮って酔いどれになっていた人たちに深刻な苦しみを与えました。しかし、この災いが最も影響を与えたのは、主の宮で行われていた礼拝でした。祭司たちから、主に捧げる穀物やぶどう酒が断たれてしまったのです。預言者ヨエルは、この苦しみは、酔いどれになっていい加減になっていた礼拝を改めるために主が与えてくださった戒めだと悟り、祭司たちや長老たちに、心から悔い改めて主に最善の礼拝を捧げるように呼びかけました。ヨエルは、いなごの災いとは比較にならないほどの「破壊の日」(15) が必ず来ることを預言し、その前に、ちゃんと悔い改めて主を呼び求める者になるように、人々に呼びかけたのでした。(2019年11月13日公開)




「誇るべきもの」(アモス書 6 章)

 アモスの時代、イスラエルの人たちは次のようなものを誇りとし、拠り頼んでいました。要塞のような都、成功している指導者、豊かな富、豊かな文化、立派な家、自分たちの力で勝ち取った成功…。彼らは、これらのものが自分たちから「わざわいの日を遠ざけている」と考えていました。ですが、実際には、彼らがこれらのものに目を奪われて主に背を向けていたので、主はこれらのものを忌み嫌っておられました。そして、これらのものが「暴虐の時代」を近づけ、彼らに滅びをもたらそうとしていたのでした。

 わざわいの日を遠ざけるものは、人間の知恵や力や富ではありません。主を信頼し、主のみことばにちゃんと聞き従うこと。そのことが、真に私たちをわざわいから遠ざけ、私たちを守るのです。あなたは、何を誇り、何に拠り頼んでいますか。(2019年11月18日公開)




「王国は主のもの」(オバデヤ書)

 ユダは、罪を犯し続けたのでさばきを受けることになりました。そして、敵の攻撃を受けて、エルサレムの都を失い、イスラエルの国から追い出されるという苦しみを経験することになりました(11)。その時、イスラエルと親戚関係であったエドムは、イスラエルをかわいそうに思うどころか、喜び、大口をたたき、財宝を奪い、逃れようとする者が逃げられないように道に立ちふさがりました(12-14)。エドムは、主の前では自分たちも罪人であることを忘れて、高慢になり、兄弟の災難の日に喜んだのです。主は、そんなエドムに対して激しくお怒りになり、「おまえは、自分がしたように、自分にもされる」(15) とおっしゃいました。高慢になってあわれみを忘れたエドムの民は、実際に、紀元前553 年にバビロン帝国によって滅ぼされることになりました。

 私たちは、ほかのだれかが懲らしめを受けているとき、自分もまた罪人であることを忘れないようにして、主を恐れなければなりません。すべては主の主権の下にあります。どんなときも、主を恐れ、へりくだって主に仕える生き方をしましょう。(2019年11月24日公開)




「主の御顔を避けて」(ヨナ書 1 章)

 主は、イスラエルを滅ぼす可能性があったアッシリアの都ニネベに行って叫ぶよう、ヨナにお命じになりました。ヨナは、「主を恐れる者です」(9)と告白する預言者だったのに、主の御顔を避けて、主に背こうとしました。本当だったら、ヨナは主に見捨てられても仕方なかったと思います。ですが、主は、どこまでもヨナと関わろうとしてくださいました(4)。そしてヨナは、主からのこらしめを通して、自分が大変な誤解していたことに気付かされるようになっていきます(2-4 章)。

 主のみことばに聞き従いたくない。そう思って、主の御顔を避けようとすること(ちゃんと向き合うことから逃げ出そうとすること)はありませんか。そんなとき、あなたは、主の御思いをほんとうに知っていると思いますか。御顔を避けようとするのではなく、御顔をしっかりと見つめ、みことばをちゃんと聞き、心から祈るようにしましょう。(2019年11月24日公開)




「治める方が来てくださる」(ミカ書 5 章)

 預言者ミカは、主を信じる者たちを治めるまことの王が来られると預言しました。そして、そのまことの王がお生まれになるのは、大きな都ではなく、小さな町ベツレヘムだと預言しました。

 それから約七百年後、預言者ミカを通して主がお告げになったとおり、まことの王がこの世に来て下さいました。そのまことの王こそ、救い主イエス・キリストです。イエス様は、預言されていたとおり、小さな町ベツレヘムでお生まれになりました。それも、人々から歓迎されることなく、馬小屋のかいばおけにお生まれになったのです。

 イエス様は、私たち人間の弱さや悲しみ、貧しさや苦しみをすべて知っていてくださるお方です。また、人の内にあるどうしようもなく汚い罪も知っていてくださいます。そんなイエス様が、私たちを治めるお方として、私たちのもとに来て下さったのです。私たちの罪を赦すために十字架におかかりくださり、私たちを教え、守り導くために、よみがえって今も生きておられるのです。イエス様に治めていただけることはなんとしあわせなことでしょうか。(2019年12月1日公開)




「わたしはおまえを敵とする」(ナホム書 3 章)

 ニネベを都とするアッシリアは、歴史上でもっとも残虐な国の一つでした。彼らは、次々にほかの国を襲い、人々を殺しました。また、同盟国との約束を簡単に破って、それらの国々を侵略しました。その力は強大で、繁栄をほこっていたエジプトの都でさえ、アッシリアに滅ぼされてしまいました。アッシリアは、自分たちは特別で、どれだけ悪いことをしてもさばかれることはないと考えていました。

 しかし、「わたしはおまえを敵とする」と主はおっしゃいました。この世でどれほどの力を得て誇っていたとしても、罪を犯せば、そのままでいられることなどないのです。どれほど強い国でも、罪を犯すなら、主が敵となられます。そして、簡単に滅ぼされてしまうのであって、なんのあわれみも助けも受けることができないのです。

【お祈り】主よ。あなたは正しいさばきをなさるお方です。私が、目に見えないあなたを恐れ、どんな罪もちゃんと悔い改めて、あなたの敵とならないよう、助けてください。(2021年1月25日公開)




「しかし、私は」(ハバクク書 3 章)

 預言者ハバククは、ユダの国はその罪のゆえにバビロンに滅ぼされるということを主から知らされました。17 節に預言されているように、ユダは完全に滅ぼされるのです。でも、ハバククは、主に聞き従う人たちのことを主が必ず救ってくださることも知らされていました。だから、主がどれほどきびしいさばきをなさったとしても、主の救いは必ず実現するという希望をもっていました。この後、ユダの国は実際にバビロンに侵略され、滅ぼされてしまいます。ハバククにとっても、それはとてもつらく苦しいことだったと思います。でも、そんな苦しみの中にあっても、ハバククには確かな希望がありました。主を信じ、主のみことばを信じる者には、どんな状況の中にあっても「しかし、私は主にあって喜び踊り、わが救いの神にあって楽しもう」と宣言できる力が与えられるのです。(2021年1月26日公開)




「あなたのただ中に住む」(ゼカリヤ書 2 章)

 主から離れて生活していた者たちに、主は、主が定めたところに戻ってきなさい、とお命じになりました。そして、そこに戻って来るなら「わたしは来て、あなたのただ中に住む」(10) と約束してくださいました。

 主イエスは、旧約聖書の約束どおり、天から降って私たちのところに来てくださり、預言されていたとおりエルサレムで十字架にかかり、三日目によみがえってくださいました。そして、天に昇られたイエス様は、信じる者たちの内に聖霊を送ってくださるのです。今、主が定められたところである教会(イエス様を信じる人たちの共同体)にあなたが連なるなら、主は聖霊によってあなたの内に宿り、あなたを守り導いてくださいます。それは、ことばに出来ないほどの恵みと祝福です。(2019年12月15日公開)




「わたしはあなたがたを愛している」(マラキ書 1 章)

 「わたしはあなたがたを愛している」。主は、イスラエルに対してそう言ってくださいました。そして、エドムをはじめとする多くの民族が滅んで行くなか、イスラエルの民を守り、捕囚の地バビロンから連れ戻してくださいました。それは、主がご自身の約束に基づいて、ただただイスラエルを愛し続けてくださったからにほかなりませんでした。しかし、その主に対してイスラエルは、「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」と反論しました。彼らは、自分たちがどれほど主に愛され、赦され、守られているのか、ちゃんと考えようともしませんでした。そして、総督に差し出せば決して受け入れられることのないような汚れたパンや病気や傷のある動物を、主へのささげ物として平気で献げていたのです。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3:16)。そう言われている神の愛を、あなたは知っていますか?その愛に応答していますか?(2019年12月31日公開)




「御名が聖なるものとされますように」(マタイの福音書 6 章 9 節)

 イエス様が教えて下さった「主の祈り」で、最初に祈られるべき大切な祈りは、「御名が聖なるものとされますように」です。

 「聖」というのは、「取り分けられている」「特別な」という意味のことばです。そして、神様は、私たちが祈っても祈らなくても、いつも変わることなく聖なるお方です。では、どうしてこのように祈るのでしょう。それは、私たちが、そして私たちの周りの人々が、この特別な真の神様のことを、ちゃんと知って、このお方が本当に特別なお方であることをよく知ることができるように、いつも真剣に願い求める必要があるからです。あなたにとって、神様はどんなお方ですか?本当に、「聖なる」お方ですか?神様の特別さ、素晴らしさを知ることには、限度も限界もありません。どんな祈りの最初にも、「御名が聖なるものとされますように」と真剣に祈り求め、いよいよ神様のことを知らせていただきましょう。(2020年3月29日公開)




「遣わされた弟子たち」(マタイの福音書 10 章)

 人々が救われることを願われたイエス様は、弟子たちをお遣わしになりました。その時、イエス様は弟子たちに「汚れた霊どもを制する権威」をお与えになりました。宣教の働きは、私たちの知恵や力によるものではなく、霊的な働きだということが教えられます。さらに、イエス様は弟子たちに、まず「イスラエルの失われた羊たち」のところに行きなさいとお命じになりました。神様から離れてしまっていた人たちのことを見捨てたりせず、彼らがちゃんと神様のもとに戻って、彼らが全世界の人々に主の救いを宣べ伝えるようになることが、主の願っておられることなのです。

 私たちは、イエス様の福音を知らされ、救っていただきました。主は、救われた私たちが、この素晴らしい福音をほかの人たちに宣べ伝えることを願っておられます。主から霊的な力をいただき、失われている人たちへの深い愛に満たされて、イエス様の救いを宣べ伝えるようにしましょう。(2020年10月24日公開)




「産みの苦しみ」(マタイの福音書 24 章)

 赤ちゃんが産まれる前に、お母さんは大変な苦しみを通ります。でも、その苦しみは、新しいいのちの誕生という素晴らしいことのためにあります。イエス様は、「世が終わる時」(3)にも、「産みの苦しみ」(8)があるとおっしゃいました。偽キリストが現れて人々を惑わしたり、戦争や戦争のうわさによって人々がうろたえて、信仰を捨ててしまう人たちも起こるというのです。でも、それらの苦しみの後に、必ず、イエス様が再びこの地に来て下さって、信じる者たちを最終的な救いに入れてくださるというのです。ただし、その日がいつ来るのかは、だれにも分からないとイエス様はおっしゃいました。だから、毎日、いつも、「目を覚ましていなさい」(主をしっかり信じて、主に聞き従っていなさい)と言われています。

 あなたは、今日、イエス様が戻ってこられても大丈夫な生き方をしていますか?(2020年11月12日公開)




「イエスは彼らを深くあわれみ」(マルコの福音書 6 章 30-44 節)

 34 節の「深くあわれみ」ということばは、「内蔵」ということばを動詞にしたものです。イエス様は、神様に助けていただくことを願ってご自分のもとに来る人たちのことを、深く愛し、心の底から思いやってくださるお方です。そして、人々が本当に必要としているものを与えてくださるために、パンばかりでなく、十字架にかかり、ご自分のいのちさえお与え下さったお方です。

 「羊飼いのいない羊の群れのよう」な人々が必要としているものを十分に受け取ることができるように、イエス様は、ご自分の弟子たちを用いてくださいます。イエス様を信じ、イエス様のもとにいるなら、私たちは、イエス様から受け取ったものを人々に分け与えることが出来るのです。

 心の底から人を愛していて下さるイエス様の思いを知らされながら、イエス様と、イエス様を必要とする人たちに仕えさせていただきましょう。(2019年9月8日公開)




「そばを進んで行くことを願われた」(マルコの福音書 6 章 45-57 節)

 弟子たちが、湖の上で向かい風に苦しんでいたとき、イエス様は湖の上を歩いて彼らのところに来て下さいました。ですが、弟子たちと同じ舟には乗らないで、弟子たちのそばを進んで行くことを願われました(48 節)。

 いつも自分たちといっしょにいて、自分たちが願うようにしていただきたい。私たちは、そんなふうに考えることが多いように思います。ですが、イエス様は神様です。そして、いつも私たちの願い通りにしてくださるのではなく、ご自分のみこころをなしとげるために歩んでおられるお方です。そのうえで、私たちを愛し、あわれみ、思いやり、そばを進んでいてくださるお方です。そばを進んでいてくださる主の後に、しっかりと従って進んで行くようにしましょう。(2019年10月14日公開)




「食卓の下の小犬」(マルコの福音書 7 章 24-30 節)

 今日の聖書箇所に登場する異邦人の女の人は、自分の娘を助けていただけるよう、ひれ伏してイエス様にお願いしました。そして、イエス様のことばをよく聞いて、イエス様に助けを求め続けて、助けていただきました。

 汚れた霊を追いだしていただくことや、病気を治していただくことは、とても大切なことだと言えます。でも、それはパンくずのようなもので、イエス様がすべての人に与えようとしていてくださる本当の助け/救いとは大きく異なります。イエス様は、私たちの罪を赦し、聖霊を与え、私たちを神様の子どもにしてくださるお方です。あなたは、そんなイエス様の恵みをしっかりと受け取っていますか?イエス様の救いの恵みを必要としている人たちが、教会から少し離れたところには沢山います。どうか、イエス様の救いの恵みをしっかりと受け取って、多くの人に分かち合ってください。(2020年1月14日公開)




「まだ悟らないのですか」(マルコの福音書 8 章 1-21 節)

 イエス様の弟子たちは、やがて、全世界の人々にイエス様のことを証しする使命に召されていました。そして、イエス様がなさる奇跡を沢山体験させていただきました。でも、あるとき、パンを持っていないということについて、互いに議論し始めました。数千数万という人々にパンを豊かに与えて下さったイエス様が自分たちといっしょにいてくださるのに、あれが足りないこれが足りない、だれが悪い、ということで議論してしまったのです。

 私たちも、せっかくイエス様がいっしょにいてくださるのに、イエス様に目を向けようとしないで、色々と心配したり議論したりしてしまうことがあるのではないでしょうか。イエス様はそんな弟子たちに、「見ないのですか。聞かないのですか。覚えないのですか」(18 節)とおっしゃいました。一緒にいてくださるイエス様をちゃんと見ること、イエス様のことばをちゃんと聞くこと、教えられたことをちゃんと心に留めること。イエスさまがともにいてくださるという恵みにふさわしい生き方を実際にすること。それこそが、私たちが悟らなければならないことではないでしょうか。(2020年2月10日公開)




「あなたはキリストです」(マルコの福音書 8 章)

 「あなたはキリストです」。ペテロのこの告白は、すばらしい告白でした。でも、主イエスは「自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒め」(30) られました。その理由は、ペテロたちの告白は、ことばとしては正しくても、十分な理解がなかったからです。彼らは、イエス様がユダヤの王様になってくださると思っていました。でも、イエス様は、ご自分が苦しみ、人々に捨てられ、殺され、三日後によみがえるのだとおっしゃいました。イエス様は、私たちの罪を赦すために、私たちの身代わりになって十字架にかかり、それから、よみがえってくださった、そんな救い主なのです。

 私たちは、イエス様のことをどれだけ知らされているでしょうか。ことばとしては間違っていなくても、ほんとうの意味でイエス様のことを知らされているかどうか、よく考えたいと思います。主イエスがキリストであることを知る者だけが、自分の十字架を負って、この方に従って行くことができるのですから。(2020年12月4日公開)




「これは私の愛する子。彼の言うことを聞け」(マルコの福音書 9 章 1-13 節)

 ペテロたちは、自分の救いに関わるとても大切なことが分からずにいました。目の前でイエス様の御姿が光り輝いても、それでも、イエス様がどのようなお方なのか、自分はどうのようにして救われるのか、まったく分かりませんでした。その時、彼らをおおう雲の中から声がしました。「これは私の愛する子。彼の言うことを聞け」。神様が私たちに教えようとしておられる大切なことは、すべてイエス様がよく知っておられます。そして、イエス様はどんな時も私たちと一緒にいて、私たちを教え導いてくださるお方です。大切なことが分からないときにこそ、しっかりと主のみことばを聞くことに集中しましょう。主が、必ず教えてくださいます。 (2020年5月13日公開)




「幼子を腕に抱くように」(マルコの福音書 9 章 30-37 節)

 小さな子どもは、まだよく分からないことがたくさんあります。だから、わがままだったり、いじわるだったり、たいへんなこともあります。あるとき、イエス様はそんな幼子を腕に抱きしめてくださいました。そして、お弟子さんたちに、「このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」とおっしゃいました。その時、弟子たちは「だれが一番偉いか」ということで論じ合っていました。そして、神様のことをまだあまり知らない人を馬鹿にしていました。でも、そんな弟子たちこそが、本当に大切なことがまだなにも分かっていなかったのでした。イエス様は、そんな弟子たちのことも、幼子を腕に抱くように、愛して、受け入れ、語りかけてくださいました。今はまだ分からないことがあっても、これから、イエス様の十字架の愛とみことばによって、ちゃんと成長することを信じておられたからです。

 私たちは、そのようにしてイエス様に愛され、腕に抱きしめていただきました。みことばをしっかりと聞いてイエス様の愛を知らされましょう。そして、その愛によって、ほかの人のことも、暖かく迎え入れる弟子であらせていただきましょう。(2020年7月11日公開)




「祈りの家」(マルコの福音書 11 章 12-25 節)

 いちじくの木は、実をならせるために葉を茂らせます。でも、イエス様がご覧になったいちじくの木は、実をならせる季節でもないのに、葉ばかり茂らせていました。その時代のエルサレムの神殿も同じでした。主のみこころが行われるように祈るためではなく、商売で儲けるために、賑やかに色々なことをしていたのです。イエス様は、そのような状態を何とかして改めさせようとなさいました。

 私たちの教会、私たちの生活はどうでしょうか。神様を無視して、好き勝手なことをしてしまってはいないでしょうか。主は、私たちが主に祈り、主によって実り豊かな生活をすることを願っておられます。そして、イエス様は、私たちがそのような生き方ができるように、ご自分のいのちを与え、私たちの生き方が変えられるよう、御父に祈ってくださいました。私たちが主に祈り、主に赦された者として人を赦し、主によって実りある生き方をすることは、主が願っていてくださることです。主のみこころは必ず成ると信じ、私たちの教会が「祈りの家」であれるよう、祈りましょう。(2019年7月21日公開)




「あなたの願いが聞き入れられた」(ルカの福音書 1 章 5 - 25 節)

 ザカリヤとエリサベツは、主を信じ、主のみことばに聞き従う正しい人たちでした。彼らは、ほかの正しいイスラエル人たちと同じように、救い主が来て下さることを祈り求めていました。そんなある日、ザカリヤが神殿で祈っていると、御使いがザカリヤに現れ、ザカリヤとエリサベツに子どもが生まれることを告げました。ヨハネと名付けられるその子どもは、その後に生まれてくる救い主をみんなが信じられるように、準備をする人になるのだと言われました。

 ザカリヤは、この良い知らせをすぐに信じることが出来ませんでした。自分たち夫婦は年をとっていたので、聞かされた良い知らせが実現するのは難しいと考えたのです。そんなザカリヤに、御使いは一つのしるしを与えました。それは、与えられた知らせが実現するまで、口がきけなくなるというものでした。その時からヨハネが生まれるまでの十ヶ月間、ザカリヤは主のみことばについて、救い主の到来の約束について、静かに考え続けたことと思います。そして、ヨハネが生まれたとき、ザカリヤは救い主がお生まれになることについて、そして、自分の子どもであるヨハネがその準備をすることについて、確信に満ちて預言しました(1:68-75)。

 あなたの祈りを、主は聞いていてくださいます。そして、「救い主をお与えください」と切に願い求めるなら、主はその願いを聞き入れてくださるのです。(2019年12月10日公開)




「おことばどおり、この身になりますように」(ルカの福音書 1 章 26 - 38 節)

 マリアは、ヨセフと婚約をしていましたが、まだ結婚していませんでした。そんなマリアに、神様から御使いガブリエルが遣わされました。そして、驚くべきメッセージを告げられました。旧約聖書でずっと預言されていた救い主が、マリアのおなかに宿る、というのです。マリアは驚き、それがどのようにして実現するのかと問いかけました。すると御使いは、「聖霊いによって」と答え、「神にとって不可能なことは何もない」と告げました。マリアは、「私は主のはしため(しもべ)です。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と答えました。神様がお告げになったことは、自分には完全に理解することはできないし、自分の人生を大きく変えることになるけれど、マリアは主を信頼して、主のみことばに自分のすべてを委ねたのでした。

 救い主イエス・キリストは、今も、主を信頼してみことばを受け入れる人の内に宿ってくださいます。救い主であるイエス様は、あなたがみことばを信じて受け入れるときに、聖霊によってあなたの内に宿ってくださるのです。(2019年12月22日公開)




「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカの福音書 23 章 32-43 節)

 イエス様と一緒に十字架につけられた犯罪人の一人は、自分が罪人であり、さばきを受けるのが当然であることを認めました。同時に、同じように十字架につけられていながら、イエス様には何の罪もないことを告白しました。そして、イエス様に、「あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」と言いました。するとイエス様は彼に、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」とおっしゃいました。「パラダイス」とは、「園」という意味のことばです。アダムとエバは罪を犯して、主が与えて下さったエデンの園から追放されました。でも、自分が罪人であることを認め、罪のないイエス様が私を救うために十字架にかかってくださったと告白し、イエス様に救いを求めるなら、その人は罪が赦されて、イエス様とともにパラダイス(園)にいることができるのです。(2019年7月25日公開)




「イエスだとわかった」(ルカの福音書 24 章 13-35 節)

 今から約2,000年前にイエス様が十字架にかけられて死んだことは皆さん事実として知って信じていると思いますが、よみがえったことを信じるか信じないかは分かれることでしょう。今日(2019年4月21日)の聖書箇所には十字架にかけられるまではイエス様を信じていたのに、死んでから信じるのをやめてエルサレムから離れて行く二人の弟子のことが書かれています。イエス様はそんな二人のところに追いかけて来られ、イエス様だと分からなかった二人に分かるようにして下さいました。イエス様は、26節:「キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」と話し、そしてそのことは旧約聖書で神様がずっと教えてくださっていたことで、そのことが実現したのだと話されました。イエス様の十字架での死と復活は、この時から700年前にもイザヤという預言者を通して語られています。

 今もイエス様が復活されたことを信じないで聖書から離れていく人たちがいますが、聖書は今も、イエス様は生き返って天に上り人々を救って守り導くようになると教えています。二人がイエス様だと分かって生き方が変わったようにイエス様が救い主だと知ることの恵みが語られています。(2019年5月27日公開)




「あなたの息子、あなたの母です」(ヨハネの福音書 19 章 17-30 節)

 イエス様は、この地上でご自分の母親であったマリアのことをとても大切にしていらっしゃったと思います。そのイエス様が、十字架におかかりになって死なれる時、ひとりの弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」とおっしゃいました。

 この弟子は、ほかの弟子たちのように逃げ出すことはしませんでしたが、十字架で苦しまれるイエス様のすぐそばにいながら、結局、何もすることが出来ませんでした。この弟子は、自分がどれほど愛がなく無力で惨めな人間であるか、十字架のそばに立ちながら、いやというほど思い知らされていたことと思います。でも、そんな自分に、イエス様はご自分の大切な人を任せてくださいました。それは、私はあなたを赦している、あなたはこれから私の代わりに生きて行きなさい、というメッセージだったのだと思います。イエス様を十字架につけた私たち罪人ですが、イエス様の十字架によって赦されて、新しい生き方をする恵みをいただいています。そして、その新しい生き方は、イエス様の代わりに、イエス様が愛しておられる人々に仕えるという生き方なのです。(2019年5月13日公開)




「完了した」(ヨハネの福音書 19 章 28-30 節)

 イエス様の十字架は、私たち人間の罪を明らかにしました。私たちは、どれだけごまかしていても、自分では気づいていなくても、罪のない神の御子を十字架につけるほどの罪を抱えています。あなたは、自分のうちにある汚さや愛のなさに、驚かされること、絶望させられることはありませんか?

 でも、イエス様の十字架は同時に、神様の御愛も明らかにしました。御子を十字架につけようとする私たちを救うために、イエス様は十字架にかかってくださったのです。そして、「完了した」と宣言してくださいました。私たちが自分ではどうしても終了させることができない古い生き方、罪に縛られた生き方を、イエス様は「完了」させてくださり、新しい生き方をさせてくださると言ってくださったのです。

 「完了した」。そう言ってくださるイエス様は、よみがえって、今も生きておられます。主のことばをしっかりと聞き、みことばによって新しく生きる者であらせていただこう。(2020年4月5日公開)




「平安があなたがたにあるように」(ヨハネの福音書 20 章 19-23 節)

 イエス様が十字架にかけられて死なれた後、弟子たちは、「ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて」隠れていました。自分たちもイエス様と同じような目に遭わされるのではないかと、恐れていたのです。また、イエス様を見捨てて逃げてしまった罪のことも、恐れていたと思います。彼らは、正しく主を恐れることが出来ず、様々な恐れに縛られて動けなくなっていました。

 そんな弟子たちのところに、よみがえったイエス様は来てくださいました。そして、「平安があなたがたにあるように」と言ってくださり、十字架で受けた傷を見せて、罪の赦しが与えられることを示してくださいました。弟子たちは、イエス様を見捨てて逃げるという罪を犯しましたが、イエス様は、ご自分の血を流し、いのちを与えることで、赦してくださったです。そればかりでなく、イエス様は、「わたしもあなたがたを遣わします」と宣言し、「聖霊を受けなさい」と言ってくださいました。イエス様は、弟子たちの罪を赦し、様々な恐れから解き放ち、罪の救いと永遠のいのちを与えるイエス様の福音を伝える者として、弟子たちを新しく生かしてくださったのでした。(2020年4月12日公開)




「私にあるものを」(使徒の働き 3 章 1-26 節)

 エルサレムの宮の門のところに、助けを必要とする一人の人がいました。その人は生まれつき足が不自由で、礼拝に来る人たちに「施し」を求めて暮らしていました。そこに、ペテロとヨハネがやって来ました。この人は、お金をもらうことを期待したことでしょう。でも、想像もしていなかったことが起こりました。

 ペテロは、その人をじっと見つめた後、「金銀は私にはない」と言いました。でも、「私にあるものをあげよう」と言って、「ナザレのイエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい」と言いました。そして、その人の右手をとって、立たせました。この人は、たちまち足が強められ、躍り上がって立ち、歩いたり飛び跳ねたりしながら、喜び賛美して神様を礼拝するようになりました。体だけではなく、たましいが回復したのです。助けを必要として苦しむ人々に教会が差し出せるものって、なんだろう。自分に与えられているものが何なのか、それにはどんな価値があるのか、今日の聖書箇所から考えてみましょう。(2020年6月3日公開)




「神の恵みにより、価なしに義と認められる」(ローマ人への手紙紙 3 章 19-26 節)

 神の教えを全うできない私たちすべての人のために、神は旧約で啓示された「罪人の赦し」を、罪のない神の御子イエス様を罪人の身代わりとして十字架上で死に渡されました。そしてその死んだイエス様は三日目に墓よりよみがえってくださいました。このことは神様から一方的に与えられた私たちへの恵みです。私たち罪人が何かを差し出した、何かをしたからの見返りではありません。このイエス様の十字架の死と復活の恵みを信じる者には誰にでも、「あなたの罪は赦された、そしてあなたは永遠のいのちを持つ」と神は約束・契約してくださったのです。これが神の愛・神の義です。この神の義を信じ続けていきましょう。(2019年10月21日公開)




「キリストとともに生きる」(ローマ人への手紙紙 5 章 19 節 - 6 章 14 節)

 イエス様の十字架の死は、私たちのすべての罪の身代わりの死です。本当ならば、罪ある私たちが十字架に架かって、神様からの罰を受けなければならなかったのです。しかし神様は、私たちすべての人を愛し、御子イエス様の十字架の身代わりの死で、私たちを救い出してくださいました。そのことを信じる者たちが、どうしていつまでも自分の欲望通りに生きるのですか、と神様からその信仰を問われています。そうあってはいけません。新しく生まれ変わった私たちは、罪から解放され、愛と平和の神の恵みの中、神の自由な善良な人として、イエス・キリストとともに生きるのです。(2020年4月28日公開)




「キリストとともに生きる」(ローマ人への手紙紙 6 章 1 - 14 節)

 イエス様は、私たちが罪のせいでさばかれて滅びてしまうことがないように、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んでくださいました。そして、私たちが神様に従って生きられるように、よみがえって、今も私たちを導いていてくださいます。イエス様を信じていても、私たちは罪を犯してしまうことがあります。でも、イエス様がその罪を赦し、罪とその結果としての滅びから解放してくださいます。私たちはもう、罪の奴隷としていつまでも罪に支配され続ける必要はないのです。むしろ、罪と滅びから解放された私たちは、神様に仕えるしもべとして新しく生きることが出来るのです。キリストを信じ、キリストとともに生きる。あなたはそのとき、罪から解放され、神様に従って生きる者となるのです。(2021年2月25日公開)




「キリストのしもべ、神の奥義の管理者」(コリント人への手紙第一 4 章)

 パウロは、自分を含めて教会を導く人たちは、「キリストのしもべ」であり「神の奥義の管理者」なのだと教えました。「キリストのしもべ」というのは、イエス様のように徹底してへりくだって神と人に仕えて生きる人のことです。「神の奥義の管理者」というのは、神様が示してくださらないかぎり分からない大切なことを忠実に伝える人ということです。

 パウロはその上で、教会に連なるみんなが「私に倣う者となってください」と言いました。すなわち、クリスチャンはみんな、「キリストのしもべ」、「神の奥義の管理者」として生きるべきだ、ということです。私たちも、「キリストのしもべ」として身を低くしましょう。また、「神の奥義の管理者」として、御霊によってみことばから教えられ、みことばを実践して証しする人であらせていただきましょう。みんながそのように生きるとき、教会はイエス様の証人としてますます用いられます。(2021年3月7日公開)




「キリストのからだ」(コリント人への手紙第一 12 章)

 教会は、「キリストのからだ」なのだと聖書は教えています。からだには色んな器官があって、どの器官もそれぞれの働きをしながら互いに支え合っています。同じように、教会も、一人ひとりが大切で、互いにつながり、互いに助け合うことが神様のみこころです。そして神様は、教会に連なる一人ひとりに、御霊の賜物を分け与えていてくださり、一人ひとりにそれぞれの務めを与えていてくださいます。ある賜物がほかの賜物よりも優れているということはありませんし、ある働きがほかの働きよりも優れているということもありません。みんなで、一つなのです。

 イエス様によって救っていただいた私たちは、同じ御霊を受け、それぞれの賜物と使命をいただいて、イエス様のいのちによって一つとされています。イエス様に愛されている一人ひとりとして、互いに愛しあい、助け合うことで、生き生きとした教会(イエス様のからだ)であらせていただきましょう。(2021年3月19日公開)




「キリストの香り」(コリント人への手紙第二 2 章)

 1 世紀のローマでは、大きな戦いに勝利すると凱がい旋せんの行列が都を行進しました。そのとき、町中でかぐわしいこうが炊かれました。その香をかいだ人たちは、大きな戦いに勝利したことを強く実感したのでした。今日の聖書箇所で、パウロは大変な苦しみを経験していました。もうこれ以上戦えない(みことばを語ることが出来ない)と思えるほどの状況でした。でもパウロは、「しかし、神に感謝します」(14) と言いました。どれほど苦しく、どれほど敗北は間違いないと思える状況であっても、神様が必ず戦いに勝利させてくださることを信じていたからです。そして、苦しみの中で誠実にみことばを語り続けるときにこそ、神様がその人々を通して「キリストの香り」を放ってくださることを信じていたのです。十字架にかかり、私たちの救いを勝ち取ってよみがえってくださった「キリストの香り」は、あなたを通して放たれていますか?(2021年3月23日公開)




「喜んで与える人」(コリント人への手紙第二 9 章)

 パウロは、コリント教会の人たちに、エルサレム教会の人たちを助けてあげてくださいとお願いしました。エルサレムでは、飢饉ききんがおこって食べることにも困っていた人たちがいたからです。パウロは、「神は、喜んで与える人を愛してくださるのです」と教えてコリント教会の人たちを励ましました。また、人を助けるための力(この場合はエルサレム教会を支援するための献金)は、神様が恵みとしてあふれるばかりに与えてくださるのだと教えて励ましました。

 イエス様は、「喜んで与える人」の模範ですね。私たちを愛し、私たちを助ける(救う)ために、喜んでご自分のすべてを与え尽くしてくださいました。そんな「ことばに表せないほどの賜物のゆえに」、神様に感謝しましょう。そして、神様に喜んでいただけるように、喜んで与える人にならせていただきましょう。(2021年3月31日公開)




「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ人への手紙 3 章 12 節 - 4 章 1 節)

 あなたの国籍は何ですか?日本、イスラエル、ギリシア、それとも神の国?私たちは父・母の元で生まれ、それぞれ国籍を有しています。しかし、それはこの世にあっての国籍です。神様の視点から云うと、「神の国の民、それとも、神の国に入らない民」のどちらかの国籍となるでしょう。キリスト者は、イエス様の十字架の贖いとよみがえりを信じる信仰告白・洗礼を通して、旧い罪ある自分が死に、新しいいのちを神様からいただいた神の国の者たちです。ですから、この新しいいのちの国籍は、今は天の御国です。誇らしく、喜んで、神の国の民として歩み続けましょう。(2020年9月30日公開)




「堕落してしまうなら」(ヘブル人への手紙 6 章 1-12 節)

 あなたはもう何年間礼拝に集い、聖書を読み、祈り、教会学校に通っていますか?あなたのイエス様への信仰は深まっていますか?でも段々学校のことや友達との関係、将来の自分のことなど心配事が増えて来て、神様のことが遠のいて行っているかもしれません。それって、自分・自分の思いが強くなって、自分で何かしよう、という思いになり、神様から離れた堕落の道を進んでいることになります。そしてついには、神様よりもっと大事な何かにと、たましいが奪われることになるのです。それは偶像礼拝で大きな罪です。すべてをご存じで、すべてをご支配される神様を信じて、神様の助けを待ち、神様に救っていただきましょう。(2019年9月15日公開)




「私たちも、走り続けよう」(ヘブル人への手紙 12 章)

 旧約時代の信仰者たちから手渡された信仰のバトンは、今、私たちの手にあります。そしてこの信仰の歩みは、短距離走ではなくマラソンのようなものです。色んな障害や険しい坂道があっても、一歩一歩進んでいくことが大切です。

 歩み続けてゴールする(救いの完成に至る)ためには、次のことが大切です。①重荷と罪を捨てること:主に重荷を委ね、主によって罪から解放していただきましょう。②イエス様を見続けること:イエス様を見つめ続け、その御声に励まされて導かれることが、信仰の歩みを歩み続ける秘訣です。③主の訓練を受けること:主は、私たちの救いが完成に至るように、愛と知恵をもって訓練してくださいます。訓練から逃げ出さす、主を信頼して歩み続けましょう。④目指しているゴールを確認する:信仰の歩みは、この上もない喜びである救いの完成を目指しています。希望と喜びをもって歩み続けましょう。⑤語りかけていてくださる主の御声を聞き続けよう:主は、あなたが救いの完成に至ることを願って語りかけていてくださいます。感謝して聞き続け、主を礼拝し続けよう。(2020年11月28日公開)




「信仰による祈りは」(ヤコブの手紙 5 章 13-18 節)

 私たち人間には、根深い罪があります。神を第一とせず、自分が第一だと思う心です。そんな自分で拭いきれない罪を、イエス様は身代わりとして十字架に掛かって死んでくださり、私たちのすべての罪をお赦しくださり永遠のいのちをお与えくださいました。私たちは、たとえどんな状況に置かれたとしても、そこには主の御思いがあり、それが何か、今の自分には分からないことであったとしても、忍耐して、信仰をもって祈り、主に導いていただきましょう。主は必ず救いと癒しと平安をお与えくださる方です。主を信じて歩み続けましょう。(2020年2月25日公開)




「へりくだって、ゆだねなさい」(ペテロの手紙第一 5 章)

 ペテロは、厳しい試練に遭っている信仰者たちを励ますためにこの手紙を書きました。その手紙の結論部分で、神の力強い御手の下にへりくだり、心配してくださる神にすべての思い煩いをゆだねなさい、と教えています。その上で、だれかを食い尽くそうとして吠えたける獅子のように探し回っている悪魔に対抗するために、目を覚まして(祈り続けて)、堅く信仰に立ち続けなさい、と命じています。そうすれば、「神ご自身が」(10)、「しばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださ」るのです(10)。

 信仰者として生きていれば、必ず試練に遭います。でも、その試練の中で、あなたの信仰は練られ、称賛と栄光と誉れが必ずもたらされます(1:7)。主を信頼して、へりくだって、すべてを主にゆだねる生き方を続けましょう。(2021年1月13日公開)




「義の道を知っていながら」(ペテロの手紙第二 2 章)

 ペテロがこの手紙を書いた頃、たくさんの教会が厳しい試練に遭っていました。外側からの迫害という苦しみもありましたが、より深刻だったのは、偽教師たちが教会の中に現れたことです。彼らは、「義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる戒め(聖書のことば)から再び離れ」(21) てしまった人たちでした。主を信頼することをやめてしまい、主のみことばに聞き従って生きることをやめてしまった人たちが、欲望に従って生きるようになり、教会のほかの人たちも誘惑に陥らせ、「彼らのせいで真理の道が悪く言われる」(2) ことになってしまったのでした。

 しかし、彼らはいつまでもさばきから逃れられるわけではありません。9 節にあるように、主は彼らを必ず処罰してくださるのです。私たちは、自分がそうなってしまわないよう、みことばにとどまり、知らされている「義の道」を歩み続けるようにしましょう。(2021年2月11日公開)




「だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。」(ヨハネの手紙第一 2 章 3-11 節)

 私たちは、イエス様が私の罪のために十字架の身代わりの死に預かってくださったことを知っています。そして、イエス様が十字架の死からよみがえってくださったことも知っています。このことを通して、私たちは自分の罪を認め、悔い改めて、イエス様を私の救い主と信じて生きています。にも拘わらず、イエス様が教えてくださった大切な命令、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」を未だに実行できないときがあります。イエス様が私の罪のために死んでくださった本当の愛を、私がどこまで深く知っていますか、といつも問われています。イエス様の愛にいつもとどまることができますよう、憐れみ、導いてください。(2020年7月1日公開)




「わたしは愛する者をみな」(ヨハネの黙示録 3 章 14-22 節)

 神様は創造の始めから私たちすべての人を愛し、大切に生かしてくださっています。でも私たちすべての人は、その神の愛から離れて、自分を優先する罪ある者へと変わってしまいました。神様はそのすべての罪を赦し、私たちを死から救い出すために、御子イエス様を私たちの身代わりに十字架に掛け死なせたのです。私たちはそのことを信じ受け入れ、神の子どもとされました。なのに未だに、自分の都合の良いように、時々神に従い、時々神に従わないという生ぬるい信仰を持っていませんか。イエス様の十字架の愛をどうして遠いことのようにしてしまうのですか。それで、神様は愛する私たちをみな、繰り返し「こうありなさい、そうであってはいけません。」とみことばを語り続け、時に痛みを伴う懲らしめをなさるのです。それはすべて、神様が私たちを愛し、いつも私たちが神様のみことばに従順であって欲しいからです。(2020年3月23日公開)




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