ショートメッセージ

聖書の理解の一助となる短いメッセージのページです。
※山中直義師執筆の「デボーションノート」より抜粋

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「あなたの息子、あなたの母です」(ヨハネの福音書 19 章 17-30 節)

 イエス様は、この地上でご自分の母親であったマリアのことをとても大切にしていらっしゃったと思います。そのイエス様が、十字架におかかりになって死なれる時、ひとりの弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」とおっしゃいました。

 この弟子は、ほかの弟子たちのように逃げ出すことはしませんでしたが、十字架で苦しまれるイエス様のすぐそばにいながら、結局、何もすることが出来ませんでした。この弟子は、自分がどれほど愛がなく無力で惨めな人間であるか、十字架のそばに立ちながら、いやというほど思い知らされていたことと思います。でも、そんな自分に、イエス様はご自分の大切な人を任せてくださいました。それは、私はあなたを赦している、あなたはこれから私の代わりに生きて行きなさい、というメッセージだったのだと思います。イエス様を十字架につけた私たち罪人ですが、イエス様の十字架によって赦されて、新しい生き方をする恵みをいただいています。そして、その新しい生き方は、イエス様の代わりに、イエス様が愛しておられる人々に仕えるという生き方なのです。(2019年5月13日公開)




「イエスだとわかった」(ルカの福音書 24 章 13-35 節)

 今から約2,000年前にイエス様が十字架にかけられて死んだことは皆さん事実として知って信じていると思いますが、よみがえったことを信じるか信じないかは分かれることでしょう。今日(2019年4月21日)の聖書箇所には十字架にかけられるまではイエス様を信じていたのに、死んでから信じるのをやめてエルサレムから離れて行く二人の弟子のことが書かれています。イエス様はそんな二人のところに追いかけて来られ、イエス様だと分からなかった二人に分かるようにして下さいました。イエス様は、26節:「キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」と話し、そしてそのことは旧約聖書で神様がずっと教えてくださっていたことで、そのことが実現したのだと話されました。イエス様の十字架での死と復活は、この時から700年前にもイザヤという預言者を通して語られています。

 今もイエス様が復活されたことを信じないで聖書から離れていく人たちがいますが、聖書は今も、イエス様は生き返って天に上り人々を救って守り導くようになると教えています。二人がイエス様だと分かって生き方が変わったようにイエス様が救い主だと知ることの恵みが語られています。(2019年5月27日公開)




「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカの福音書 23 章 32-43 節)

 イエス様と一緒に十字架につけられた犯罪人の一人は、自分が罪人であり、さばきを受けるのが当然であることを認めました。同時に、同じように十字架につけられていながら、イエス様には何の罪もないことを告白しました。そして、イエス様に、「あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」と言いました。するとイエス様は彼に、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」とおっしゃいました。「パラダイス」とは、「園」という意味のことばです。アダムとエバは罪を犯して、主が与えて下さったエデンの園から追放されました。でも、自分が罪人であることを認め、罪のないイエス様が私を救うために十字架にかかってくださったと告白し、イエス様に救いを求めるなら、その人は罪が赦されて、イエス様とともにパラダイス(園)にいることができるのです。(2019年7月25日公開)




「祈りの家」(マルコの福音書 11 章 12-25 節)

 いちじくの木は、実をならせるために葉を茂らせます。でも、イエス様がご覧になったいちじくの木は、実をならせる季節でもないのに、葉ばかり茂らせていました。その時代のエルサレムの神殿も同じでした。主のみこころが行われるように祈るためではなく、商売で儲けるために、賑やかに色々なことをしていたのです。イエス様は、そのような状態を何とかして改めさせようとなさいました。

 私たちの教会、私たちの生活はどうでしょうか。神様を無視して、好き勝手なことをしてしまってはいないでしょうか。主は、私たちが主に祈り、主によって実り豊かな生活をすることを願っておられます。そして、イエス様は、私たちがそのような生き方ができるように、ご自分のいのちを与え、私たちの生き方が変えられるよう、御父に祈ってくださいました。私たちが主に祈り、主に赦された者として人を赦し、主によって実りある生き方をすることは、主が願っていてくださることです。主のみこころは必ず成ると信じ、私たちの教会が「祈りの家」であれるよう、祈りましょう。(2019年7月21日公開)




「立ち返って、生きよ」(エゼキエル書 18 章)

 主は、だれかほかの人の罪のせいで、あなたをさばいたりな さいません。また、だれかほかの人の立派な信仰のゆえに、あなたを救ったりもなさいません。主は、今、あなたがどのような生き方をしているかをよくご覧になり、判断してくださいます。以前にどれだけ立派な信仰生活をしていても、今、神様に背いて生きているなら、さばかれることになってしまいます。反対に、以前にどれほどひどい罪人として歩んでいたとしても、今、主に立ち返って主に聞き従って生きているなら、主は罪を赦して救って下さいます。主は、私たち一人ひとりの今の信仰と生き方を、ちゃんと見ていてくださいます。

【お祈り】主よ。どんなときでも、罪を犯せば悔い改めて、いつも主に立ち返って主に聞き従っていられるよう、助け導いて下さい。(2019年8月25日公開)




「見捨てられた、と言う人々」(エゼキエル書 8 章)

 エルサレムがいよいよ滅ぼされそうになっていたとき、イスラエルの人々は、ますます偶像崇拝を行いました。彼らは、「主は私たちを見ておられない。主はこの地を見捨てられた」と言い、ほかの神々に何とかして助けてもらおうと考えていたのでした。しかし、それは大きな間違いです。主は、ご自分の民をしっかりと見つめておられ、決して見捨てたりなさらないお方です。自分が犯した罪のために大変なさばきを受けているときでも、「主に見捨てられた」と考えてはなりません。むしろ、どうしようもない罪を犯した自分なのに、主は目をそらさずに見つめていてくださり、悔い改めを願い求め、待っていてくださることに心を留めましょう。そして、神以外の何かに頼ることをやめて、真の神である主のみことばを聞き、祈るようにしましょう。

【お祈り】主よ。あなたは私をお見捨てになりません。私も、あなたから目をそむけてしまうことなく、ちゃんと悔い改めることができるよう、助け導いて下さい。(2019年8月19日公開)




「その場所で主の御手が」(エゼキエル書 1 章)

 エルサレムの町がバビロン軍に攻められて、エゼキエルはバビロンの地に連れて来られました。でも、故郷から遠く離れたその場所で、エゼキエルは主からの幻を見て、主のことばを聞きました。そして、主のみことばを人に伝える預言者になりました。

 私たちがすべて順調にいっていると感じるときばかりではなく、もう希望はないとしか思えないようなときにも、主は全世界を治めておられ、あなたに語りかけてくださいます。どんなときでも、どんな場所でも、主を信頼して、主のみことばを聞きましょう。(2019年8月11日公開)




「わたしのしもべヤコブよ、恐れるな」(エレミヤ書 46 章)

 エレミヤ書46-51 章まで、色々な国々の民についての主のさばきのことばが続きます。主は、イスラエルだけの神様ではなく、全世界の神様であり、あらゆる罪を公正にさばかれます。イスラエルの民も、その罪のために主のきびしいさばきを受け、エルサレムは滅ぼされ、バビロン捕囚という苦しみに遭いました。ですが、主を信じ、主のみことばに聞き従おうとする「主のしもべ」に対して、主は「恐れるな」と仰います。それは、きびしいさばきの最中さなかにあっても、主が彼らと共におられ、彼らを救ってくださるからです。主を信じる者たちであっても、罪を犯せば厳しい懲らしめに遭います。ですが、主を信じてみことばに聞き従おうとするなら、主は必ず、懲らしめの後に救いをもたらしてくださるのです。

 罪を犯して厳しい懲らしめに遭うとしても、主を信じ、主のみことばに聞き従うことについては、恐れず、おののかず、精一杯そうさせていただくようにしましょう。

【お祈り】主よ。たとえ懲らしめに遭うときでも、恐れず、おののかず、あなたに聞き従います。(2019年8月5日公開)




「残された民の間に住んだエレミヤ」(エレミヤ書 40 章)

 ユダとエルサレムは、罪に対するさばきとして、バビロンに滅ぼされました。多くの者がバビロンに連れて行かれましたが、主は、彼らには平安が与えられると約束してくださいました。より大変だったのは、主のことばに逆らい続けて、ユダの地に残った者たちでした。預言者エレミヤは、バビロンに行って安全で豊かに暮らすことも出来ましたが、ユダの地に残された民の間に住むことを選びました。エレミヤは、主のことばに逆らい続ける者たちに、主のみことばを語り続けることを選び取ったのでした。(ヨハネの福音書1 章9-18 節も読もう)

【お祈り】主よ。みことばに従おうとしない者に対して、どこまでもあわれみを示してくださることを感謝します。語られているみことばに、聞き従いたいと願います。どうぞ、助けみちびいて下さい。(2019年7月29日公開)




「レカブ人の誠実とイスラエルの子らの不誠実」(エレミヤ書 35 章)

 レカブ人は、もともとはイスラエルの民ではありませんでしたが、イスラエルの地に寄留するようになった人たちでした。彼らは、先祖が命じた命令のすべてを守り行って歩んでいました。一方、主の民であるイスラエルの民は、主が多くの預言者を遣わして何度も何度も語りかけて下さったにもかかわらず、主の命令を守り行おうとせず、聞こうともしませんでした。先祖の命令にさえ忠実に聞き従ったレカブ人は、主からの祝福が約束され、主のみことばに不誠実な態度をとり続けたイスラエルの民には、滅びが訪れることになりました。

 どうせ、主のみことばを守ることなんて出来ない。そう考えてしまってはいないでしょうか。レカブ人の誠実な生き方から、あなたは、何を学ぶべきだと思いますか。

【お祈り】主よ。あなたのみことばに聞き従って生きるということを、簡単に諦めてしまわないよう、教え導いてください。(2019年7月24日公開)




「主が、私を遣わされた」(エレミヤ書 26 章)

 エレミヤが主の宮で主のみことばを人に伝えると、祭司と預言者と民全体が、エレミヤを嘘つき呼ばわりして、エレミヤを殺そうと言い出しました。でも、エレミヤは恐れずに、みことばを伝え続けました。12 節と15 節で、エレミヤは「主が私を遣わされた」と言っています。エレミヤは、自分の考えや願いに基づいて語っていたのではなく、主によって遣わされ、主が語っておられることを伝えていることをよく知っていました。だから、人を恐れるのではなく、主を恐れ、主が命じられたとおり、みことばを語り続けたのです。

【お祈り】主よ。人が救われるために必要な主のことばを、私も人に伝えることができますように。そして、伝える前に、あなたによって遣わされ、あなたが語っておられるみことばを語るのだということを、よく知ることができるようにしてください。(2019年7月14日公開)




「燃えさかる火のようになり」(エレミヤ書 20 章)

 エレミヤは、人々から笑い者にされ嘲られても、打たれて牢屋に入れられても、主のことばを伝えることをやめませんでした。どれほど苦しくても、悲しくても、心に痛みがあっても、主のことばを伝えることから逃げ出しませんでした。エレミヤが耐えられなかったのは、人に馬鹿にされて苦しめられることではなく、主のことば、主のみおもいを自分の内に閉じ込めてしまうことでした。主のことば、主のみおもいが、彼の骨の中で燃えさかる火のようになっていたからです。

 主のことばは、主に背いて滅んで行こうとする人々を救うことができる唯一のものです。主のことばには、主の燃えるような愛や痛みや悲しみが込められているのです。

【お祈り】主よ。あなたのみことばを私のうちにお与え下さい。主の御愛や痛みや悲しみが、私の骨の中で燃える火となって、私がみことばを伝えざるを得ないようにしてください。(2019年7月9日公開)




「なぜ、さばかないのですか?」(エレミヤ書 12 章)

 エレミヤは主に、なぜ悪者をすぐにおさばきにならないのですか、と問いかけました(1-4)。主は、一番ふさわしいときに、必ずさばきは行われる、とお答えになりました(5,6)。それも、主が「心から愛するもの」のすべてに、必ずさばきが来る、とおっしゃいました(7-13)。神様にさばかれなくて良い正しい者など、ひとりもいないのです。

 すべての人は罪を犯しているので、必ずさばきに遭います(14)。でも、悔い改めて主を信じるようになるなら、どんな人でも、必ず主に受け入れていただけるのです(15-17)。

【お祈り】主よ。さばかれるべき罪人の私に、悔い改めの機会をくださって感謝します。(2019年7月1日公開)




「生き方と行いを改めよ」(エレミヤ書 7 章)

 エレミヤの時代、エルサレムの人たちは罪を犯し続けていながら、自分たちはひどいさばきにはあわないと考えていました。主に従わない祭司たちや偽預言者たちが、エルサレムには主の神殿があるから大丈夫、ひどい目にあうことはないと言い、民はそのことばを信頼していたのです。ですが、主は、「あなたがたの生き方と行いを改めよ」と仰いました。そして、主の警告を本気で聞こうとしない民に対して、主の憤りが注がれ、民の多くは敵によって虐殺されることを宣言なさいました。

 間違ったことばに耳を傾けて安心していると、罪を犯していることに恐れさえ感じなくなり、平気で罪を犯し続けるようになってしまいます。間違ってはいけません。たとえ礼拝に通っていても、主のことばを軽んじて罪を犯していると、必ず、さばきが訪れるのです。主のみことばに真剣に耳を傾け、懲らしめられることを願い、主に教えられ、導かれるようにしましょう。そのとき、「生き方と行い」は主によって変えられます。(2019年6月27日公開)




「エレミヤの召命」(エレミヤ書 1 章)

 エレミヤは、まだ若かった時に主のみことばを人に語るように召されました。その時代は大変な時代で、だれも主のことばに耳を傾けようとしなかったので、エレミヤには恐れもありました。ですが主は、「わたしがあなたに命じることを語れ」とお命じになり、語るべきことばを与えてくださいました。そして、「わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出す」と約束してくださいました。

 イエス様を信じた人たちは、みんな、イエス様の福音を人に伝えるように召されています。主は、その人たちに聖霊を与え、主のことばを伝えることができるように助け導き、いつもともにいてくださいます。エレミヤ書から、みことばを宣べ伝えることを学んでいきましょう。(2019年6月20日公開)




「主が好まれる生き方」(イザヤ書 58 章)

 今日の聖書箇所には、「断食」ということばが何度も登場します。聖書では、毎年第七の月の十日に、断食をすることが命じられています(レビ16:29)。その日は、特別な「宥めの日」で、私たちの罪を赦してきよめるために、主が特別な犠牲を与えて下さることを覚える日でした。主は、私たちが色々なことを我慢して、いやいや宗教的な行為をすることではなく、私たちが主の恵みに感謝して、自分が受けた恵みをほかの人と分かち合おうとする生き方を喜んでくださいます。主イエスは、あなたを救うために、喜んで犠牲を払ってくださいました。私たちも、その恵みに感謝し、主が喜んでくださることを喜んでするようにしましょう。そのとき、主とともにいられることが何よりの喜びとなり、いよいよ豊かな祝福が与えられます。(2019年6月11日公開)




「永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ」(イザヤ書 54 章)

 主は、主のみことばを信じて生きたアブラハムを愛し、その子孫(アブラハムと同じように主を信じる人々)に、豊かな祝福を与えると約束してくださいました。イスラエルの民は、主のみことばを聞かずに罪を犯し続けたので厳しいさばき( バビロン捕囚) に遭いましたが、それでも、主は「永遠の真実の愛」をもってご自分の民を愛し続け、信仰の訓練をお与えになり、守り導いてくださいました。そうして、彼らはバビロンの地から解放され、もう一度、約束の地で主と歩むことができるようになりました。

 主を信じて生きるようになった人たちのことを、主は「永遠の真実の愛」で愛していてくださいます。そして、その御愛は永遠に変わることがありません。私たちは、ときに罪を犯して主から離れてしまうことがあるかもしれません。ですが、御子イエス・キリストを私たちにお与え下さった主の御愛と約束は変わることはありません。「永遠の真実の愛」をもって愛していて下さる主を信頼し、いつまでも、主の民として誠実に歩ませていただきましょう。(2019年6月5日公開)




「母の胎内にいるときから」(イザヤ書 44 章)

 母親の胎内にいる赤ちゃんは、まだ何も知らず、何もしていないときから、愛され、守られ、大切に養われます。それと同じように、イスラエルの民も、まだ何も知らず、何もしていないときから、主に愛され、守られ、育まれてきました。何かをしたから愛されたのではなく、ただただ愛され、語りかけられ、守られ、主の民として育まれてきたのです。そして、彼らが主の民として歩み続けるために必要な「主の霊」が、必ず与えられると約束されました。

 偶像は、人が木や石を材料にして作らなければ存在することさえ出来ず、そこにいのちはありません。また、それは単なる物なので、人に語りかけることも人を助けることも出来ません。しかし主は、ご自身の御力とご計画によって私たちにいのちを与え、愛し、育み、語りかけ、救ってくださるのです。また、民の罪を赦し、清め、罪の力とさばきから贖い出し、必ず良いことをすると約束してくださるのです。

 あなたは、何かを学び、何かをしたから主に愛されているのではありません。主は、ただただあなたを愛していてくださるのです。その愛に、しっかりと立ち返り、主の御霊による交わりに留まり、みことばに応答しながら歩ませていただきましょう。(2019年5月26日公開)




「聖なる道」(イザヤ書 35 章)

 どんな宗教を信じていても、最終的には真の神様のもとへ行くことが出来るのでしょうか。聖書は、そうではない、と教えています。

 今から約2700 年前、預言者イザヤは、あらゆる国々で、罪が赦され、主の民とされて、主を礼拝するようになる人たちが起こされることを預言しました。イザヤは、その人たちは、「聖なる道」(特別な道)を通って、主のもとにやって来るのだと言いました。

 その預言から約700 年後、イエス様が私たちのもとに来て下さいました。そして、私たちのために十字架におかかりくださり、私たちの罪が赦されるただ一つの特別な道を切り開いてくださいました。イエス様が用意してくださったこの救いこそ、「聖なる道」なのだと聖書は教えています。イエス様を救い主として信じ、その救いに感謝して喜んで礼拝を捧げるとき、私たちの礼拝は真に主に受けいれられる、喜びと祝福に満ちたものとなるのです。イエス様が用意してくださった救いの道を、共に喜んで歩みましょう。

 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
  わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」
   ヨハネの福音書14 章6 節(2019年5月19日公開)



「主は知恵のある方」(イザヤ書 31 章)

 やっぱり自分の考えが正しくて、相手が間違っていた。人間同士だと、そんなことも起こると思います。でも、主に対しては、いつも謙遜に、主のほうが正しいということをわきまえていなければなりません。

 ユダの人々は、アッシリアが攻めて来ようとしていたとき、エジプトと同盟を結ぶことこそが一番賢いやり方だと考えました。主は、預言者イザヤを通して、それは良くない判断だ、主だけを信頼して救いを得よ、と何度も語りかけておられました。ですが、彼らは自分たちの判断こそが正しいと考え、主のみことばを軽んじ続け、語られていた とおりのさばきをその身に招いたのでした。

 主は、私たちの最善を願って、最善のおしえを与えてくださる「知恵のある方」です。ユダの人々は、へりくだって主のみことばに耳を傾け、主のみこころを教えられて、みことばに聞き従うべきだったのです。あなたは、語られている主のみことばを軽んじて、自分の考えを優先させていないでしょうか。主が語っていてくださるみことばこそが、あなたにとっての最善だということをわきまえる知恵を持つようにしましょう。(2019年5月12日公開)




「おごった都」(イザヤ書 22 章)

 間違ったものに目を留め、間違った生き方を続けるならさばきが訪れる。今日の聖書箇所は、そのことを私たちに告げています。ユダの都エルサレムは、山の上にある町で、主によって建てられた麗しい都でした。しかし、その民は主を無視し続け、「おごった都」になってしまいました。それ故、徹底的なさばきと滅びが必ず来ることを、イザヤは預言しました。しかし、そのような主の警告を聞かされても、彼らは自分たちの力や知恵や考えばかりに目を留め、主には目もくれず、主の警告を無視し続ける。イザヤはそう預言しました。さばきが自分たちを取り囲んでいても自分たちの力で何とか出来ると考え(8-11)、悔い改めを迫られても、勝手に諦めて刹那の遊興に身を委ねる(12-14)。それが彼らの姿でした。

 聖書は、主に目を留めず、主の語りかけを無視し続ける民のおごりは、必ず壊滅的なさばきを招くと警告しています。与えられた主の守りや祝福を自分の特権や功績によるものと勘違いして驕ったり、主のあわれみを勝手に見限って悔い改めを放棄したりすることがないようにしましょう。(2019年5月12日公開)




「モアブの高ぶり」(イザヤ書 16 章)

 主は、高ぶって主に逆らい続けるモアブに対して、悲惨なさばきが訪れることを預言しておられました。でも、主は、そのようにして滅びることになるモアブのために心を痛め(9,11 節)、何とかして救いを与えようと願ってくださいました。そして、主の民であるユダに対して、さばきを受けて苦しむモアブの民が助けを求めてきたら助けてあげるように、とお命じになりました(3,4 節)。でも、モアブは結局、自分の力を誇り、高ぶり続け、主が差し出してくださった救いの手を拒絶しました。最後まで、自分の力と偶像に拠り頼んで、とうとう滅びることになってしまったのです。

 私たちはどうでしょうか。高慢になって主の語りかけを無視していないでしょうか。高ぶって主に逆らう者には、必ずさばきが来ます。主が差し出していてくださる救いの手であるイエス様に、しっかりと身を避けて留まっているようにしましょう。(2019年5月12日公開)




「主を恐れることを喜びとし」(イザヤ書 11 章)

 イザヤは、何もかもがなくなってしまったかのように思えるところから、ダビデの子孫として救い主がおいでになる、と預言しました(1)。そしてこの救い主は、「主を恐れることを喜びとし」(3)、弱い者や貧しい者のために正義と公正をもってさばきを行い、悪しき者をご自身のことばによって滅ぼしてくださるのだと言います。さらに、この救い主によって、「主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちる」(9) ようになり、主を知るようになった人々が主を恐れることを喜び、互いに平和に暮らすようになると預言しました。

 この預言から約七百年後にこの世に来て下さった主イエスは、まさに、預言されたとおりの救い主です。私たちは、貧しい者として生まれ、人々から捨てられて十字架におかかりくださった主イエスによって、神である主を本当に知ることができるようになりました。私たちに御子を与えて下さった主を恐れることを喜ぶ者であらせていただきましょう。(2019年5月12日公開)




「主は私の羊飼い」(詩篇 23 篇)

 ダビデは、ゴリアテに勝利して戦士になるまでは羊飼いでした。ダビデは、自分がよく知っている羊と自分を重ね合わせて、主が自分の羊飼いであることの幸せを歌っています。羊は、自分たちだけでは緑の牧場も水飲み場も見つけられません。彼らはすぐにパニックに陥って、道に迷ってしまいます。少しでも怖いことが起こると怯えて我を失い、放っておくと野獣の餌食にされてしまいます。そんな羊たちにとって、良い羊飼いに導かれることこそが、何よりの幸せでした。

 ダビデは、主を羊飼いとして歩むことの幸いを歌い上げています。まるで猟犬が獲物を追い続けるように、主の「いつくしみと恵み」は、主の羊を追い続け、永遠に主の家に住まわせるのです。「主は私の羊飼い」。そう告白できることは、何と幸せなことでしょう。(2019年7月25日公開)




「王座に就くのはだれか」(列王記第一 1 章)

 ダビデは年を重ねて老人になっていました。いよいよ、次の王が王座に就く時が来ていました。その時、アドニヤは、「私が王になる」と言って、そのための準備を勝手に始めました。アドニヤは、それまで父ダビデを困らせることがなかったことや、体格が良いことや、生きているダビデの息子たちの中では自分が一番年上だったことから、自分が王になるのが当然だと思ったようです。ですが、主は、ダビデの次に王になるのはソロモンだと語っておられた(5:5 参照)ので、ダビデは、ソロモンを次の王に任命しました。

 私たちも、神様のみことばを無視して、自分が当然だと思うことを優先してしまってはいないでしょうか。大切なのは、私たち人間の目にどうか、ということではなく、主が何を願っておられるか、ということです。主のみことばをよく聞くようにしましょう。(2019年7月21日公開)




「サウルの死を悲しんだダビデ」(サムエル記第二 1 章)

 あなたを憎んで意地悪ばかりする人に不幸なことが起こったら、あなたはどう思いますか。ダビデは、ダビデを憎んでいのちを狙い続けていたサウルが死んだことを知らされました。周りの人は、ダビデが喜ぶのではないかと思いましたが、ダビデはとっても悲しみました。ダビデにとってサウルは、「主に油注がれた方」(主に仕えるように選ばれた人)だったからです。ダビデは、サウルを憎んだり、サウルを敵だと思ったりしていなかったのです。

 ダビデは、サウルとヨナタンの死を悲しんで一つの哀歌(悲しみの歌)を作り、ユダの子らに教えるようにしました。サウルとヨナタンは、イスラエルのために戦った勇士だったことをユダの人たちにしっかりと教えて、二人の死を悲しむようにさせたのです。そのことは、サウルに仕えていたイスラエルの諸部族と、ダビデに仕えていたユダ部族とが争いにならないようにするために、大切なことでした。(2019年7月21日公開)




「民も王」(サムエル記第一 12 章)

 イスラエルが人間の王を自分たちの上に立てることを求めたことは、大きな罪でした。真の王である主に治められることを拒んだからです。ですが、主は彼らの願いを聞き入れて、人間の王を立ててくださいました。その上で、守るべきことをお命じになりました。それは、民も王も、主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従うということです。民も王も主を恐れて主に従うとき、主は彼らを守り導いてくださるのです。

 教会も同じです。牧師や世話人や教会学校の先生たちが立てられていますが、教会の本当のリーダーはイエス様です。先生たちも、大人たちも、こどもたちも、みんなが主を恐れ、主を愛し、主に聞き従うときに、主は教会を豊かに祝福してくださるのです。(2019年7月21日公開)




「落ち穂を拾い集める信仰」(ルツ記 2 章)

 ナオミとルツは、ベツレヘムに帰って来ました。ルツは、二人が日々の糧を得て生きていくために、麦畑で落ち穂拾いをすることにしました。イスラエルでは、弱く貧しい人たちは落ち穂拾いをすることが許されていました。それは、弱く貧しい人たちのために、主が定めてくださった恵みの律法でした。ルツは、主の恵みを信じて、自分に出来ることを精一杯行なったのでした。そして、主はそんなルツに対して、ボアズを通して惜しみなく恵みを与えてくださいました。

 小さなことに見えたとしても、主が恵みによって与えてくださったことを大切にして誠実に生きるなら、主は、惜しみなく恵みを与えてくださいます。落ち穂を誠実に拾い集めたルツのように、私たちも主の前に誠実に生きる者であらせていただきましょう。(2019年7月18日公開)




「戦いを教えるために」(士師記 3 章)

 ヨシュアが死んだ後、次世代のイスラエルは、自分たちの相続地に残っていた異邦の民によって苦しめられました。ですが、その苦しみには大切な意味がありました。彼らは、その苦しみを通して、どのように戦うべきかを教えられていったのです。主の民の戦い方は、ほかの民の戦い方とは異なります。主の民は、主に祈り、主に救っていただくことで勝利を得るのです。

 あなたにも、苦しみがあるかもしれません。ただ、その苦しみは無意味なものではないということを覚えていてください。主に祈り、主に救っていただくという経験を通して、主の救いを信頼し、主に聞き従うという信仰が養われますように。(2019年7月14日公開)




「いつまで延ばしているのか」(ヨシュア記 18 章)

 イスラエルは、カナンの王たちに戦いで勝利しました。あとは、カナンの地をしっかりと占領して、そこに住み着くだけです。だけど、イスラエルの十二部族のうちの七部族は、出て行って占領することを先延ばしにしていました(なまけていました)。ヨシュアは彼らに、神様に与えられた地なのだから、出て行ってしっかりと占領するように励ましました。

 イエス様を信じると、罪が赦され、永遠のいのちが与えられます。大勝利です。でも、心の中にある罪と戦って勝利したり、家族やお友達にイエス様のことを知らせることは、私たちが今も取り組まなければならない課題です。勝利の主を信じて、主のみことばにすぐに聞き従うようにしましょう。主は、勝利を与えてくださるお方です。(2019年7月18日公開)




「向きを変えよ」(申命記 2 章)

 人生にはどこかで、ターニングポイント(向きを変える時)が必要ではないでしょうか。イスラエルの民は、主に逆らった罪のゆえに、荒野で三十八年間放浪していました。奴隷の国エジプトからせっかく救い出されたのに、荒野を当てもなくさまよっていたのです。ですが、主に逆らった者たちが死に絶え、その罪に対するさばきが終わった時、主は新しい世代になったイスラエルに対して、「向きを変えよ」と声をかけてくださいました。そして、彼らはもう一度、約束の地を目指して歩みを始めることになりました。主は、主に聞き従って歩もうとする彼らの歩みを豊かに祝福してくださいました。

 私たちの人生にも、荒野を放浪するような時期があるかもしれません。ですが、主イエス・キリストが十字架にかかってくださった今、私たちは悔い改めて向きを変えることが出来ます。荒野を放浪する生き方から、約束の地を目指して主とともに歩む生き方に変わることが出来るのです。(2019年7月18日公開)




「レビ人の奉献」(民数記 8 章)

 レビ人は、イスラエルの民の中でも、少し特別な存在でした。彼らは、ほかの民と同じように畑を耕したり羊を飼ったりするのではなく、会見の天幕での仕事をしました。レビ人は、ほかの人たちより賢かったり仕事が出来たから選ばれたのではなく、純粋に、神様がそうお決めになったのでその仕事をしたのでした。彼らは、イスラエルの民全体に代わって主の奉仕をすることで、イスラエルの民全体の役に立っていたのでした。イスラエルの民も、自分たちの代わりに会見の天幕の仕事をするレビ人の生活を支えていました。教会も同じですね。会社やおうちで働く人々もあれば、教会でずっと働く人もあります。皆、神様に聞き従って、互いに支え合って歩んでいるのです。(2019年7月18日公開)




「わたしの掟とわたしの定めを守りなさい」(レビ記 18 章)

 みんながしているからといって、それが正しかったり、あなたにとって良いことであるとは限りません。レビ記が書かれた時代、エジプトやカナンの地では、人々がみだらなことを平気で行っていました。私たちのまわりはどうでしょう。今の日本では、若い人たちが自分たちの思うままに交際し、みだらな関係を持ったりすることを、特に悪いこととして戒めることがなくなってきています。しかし、神様はそのような事を禁止しておられます。結婚するまで、人と性的な関係をもってはならないのです。

 神様の教えを無視して生きて行くと、それによってその人は汚れてしまい、神様から離れて生きることになります。そうすると、何が正しく何が間違っているのかが益々分からなくなって、本当に神様から離れて滅んでしまうことになります。「わたしの掟とわたしの定めを守りなさい。人がそれらを行うなら、それらによって生きる。」このことばを、どうぞ真剣に受け止めてください。(2019年7月14日公開)




「助産婦たちの勇気」(出エジプト記 1 章)

 誰かを恐れて、本当はすべきでないこと、したくないことをしてしまう。そんなことはないでしょうか。どうすれば、本当に正しいと思うことを貫けるのでしょうか。 エジプトの王ファラオは、ヘブル人の助産婦シフラとプアに、生まれてくるヘブル人の赤ちゃんが男の子の場合はその場で殺さなければならないと命じました。ファラオは、人々から神のように恐れられる存在で、その命令に逆らうことは死を意味しました。しかし、この助産婦たちは「神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはしないで、男の子を生かしておいた」(17) と言います。ファラオよりも神を恐れるべきだ。彼女たちはこの真理に立ち、そのように実行しました。すると、神様は彼女たちに良くしてくださり、彼女たちを守り、その家を栄えさせてくださいました。

 誰かを恐れて、正しいと思うことが出来なくなってしまう。私たちが歩む中でも、そんなことがあると思います。しかし、神様より強い者などこの世に存在しません。神様の守りを信頼して、神様を恐れて正しいことをする生き方を選び取っていきましょう。神様は、神様を恐れる人を必ず祝福してくださいます。(2019年7月9日公開)




「事の善悪」(創世記 31 章)

 ヤコブはラバンに幾度も欺かれて苦しんできました。ただ、ヤコブも父イサクを欺いた罪を抱えたままであったはずです。また、ラバンを欺いて逃げようとしました。そんなヤコブがラバンと「事の善悪」を論じ合えば、衝突は免れず、殺し合うことになっていたかもしれません。

 私たち人間は、「事の善悪」を論じているうちに歯止めがきかなくなってしまうことがあります。だからといって、なんでもうやむやにしたり、自分が損をしていればそれでよいということでもありません。聖書は、全てを知り、全てを正しく判断し、最善を成し遂げてくださる神に信頼して委ねるようにと教えています。「事の善悪」を論じ合って人とぶつかるようなとき、全てを知り、最善をなしてくださる神がおられることを心に留め、このお方を信頼してすべてを委ねる、ということが正しい判断だということを忘れないようにしたいと思います。(2019年7月9日公開)




「神が、あそこにいる少年の声を聞かれたからだ」(創世記 21 章 8-21 節)

 神の語りかけを聞いたアブラハムは、それがたとえ自分の思い・願うことと違っていても、神のことばを信じ、言われる通りに我が子イシュマエルとその生みの母であるハガルを自分の元から去らせました。二人がアブラハムから持たされたものはパンと水の入った皮袋だけでした。どうやってこの二人はこれから先、生きていくと言うのでしょう。しかし、神様が約束されたことは必ずその通りになります。神は、あそこにいる少年の声を聞かれる方です。放ってはおかれません。神様は私たち一人ひとりを愛し、いつも私たちをご覧になっておられます。その愛してくださる神様のことば・教えをよく聞いて、私たちも神様をよく知り、愛しましょう。(2019年8月25日公開)




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